タイトル | : Re^4: (訂正)ヒジャブを被ること |
投稿日 | : 2011/07/21(Thu) 12:50 |
投稿者 | : おばさん <ummu_baraka@yahoo.co.jp> |
アッサラームアライクム
私は、和服姿の時もヒジャーブをしていた人を知っています。
彼女のヒジャーブを付けた着物姿は、とても素敵でした。
私の感想としては、和服にヒジャーブが似合うとか、似合わないというようなことではなく、それを身に付けて美しく見せてしまうような、圧倒的なものをその人が持っているかどうかなのだと思います。
女性のヒジャーブに関しては、クルアーンに神の言葉として示されているので、これは義務(ワージブ)です。
神が女性を守るために示した言葉なのですから、“文化としてのヒジャーブ”という認識のものとは明らかに違います。ヨーロッパにおける「公共施設におけるヒジャーブ禁止令」は、同時にキリスト教徒の十字架の装飾品も禁止していますから、これらも文化に対する問いかけではなく、間違いなく宗教を意識したものと思われます。
「私が私であること」私という正体はいったい何なのでしょうか?
私は、日本人を親とし日本に生まれ日本国籍を持ち、母語として日本語を話す者です。
私のアイデンティティを追及していくと、私自身は日本人という私とムスリマという私に集約されます。そしてそれはムスリマとして日本で生きてゆくという事実を示しています。
イスラームは神の教えです。その教えに従う者がムスリム・ムスリマなのですから、その教えを守ってゆくことこそ最も重要なことと考えます。
ヒジャーブ着用は、その教えの一端に過ぎませんが…女性はもっと自信を持って自ら神の教えを体現していけばいいのだと思います。
ヒジャーブを付けない選択も自分自身と神との対話の中で見出せばいいのではないでしょうか。
自らの意思で選び取るという行為は、つまりそれらもまた実は神の導きに他ならず…人それぞれで“その時”というものがあるのでしょう、きっと。
人の目や言葉を怖れるのではなく、神を畏れる者でありたいと思います。
日本の文化の中でイスラームがどのように根付いてゆくのか、若いムスリム・ムスリマの責任は重大です。難しい問題も山積していますが、「私たちの行いを易くしてください」とドゥアーしながら、皆で力を合わせてジハードして行きましょう。