東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内別子銅山のあゆみ


別子銅山のあゆみ


 
新居浜市総合ガイドブック  「旅心くすぐる 愛媛・新居浜」 
 より、別子銅山の歴史について引用しました。

あかがね文化の歴史とロマンを訪ねて

銅に賭けた男達の夢。
三世紀に渡る壮大なドラマを今、振り返る。

江戸時代

 一説によりますと、元禄三年(1690)阿波生まれの渡り鉱夫・切上り長兵衛が天領であった別子で有望な「やけ」(銅鉱床の路頭)を発見し、備中吉岡銅山の住友家支配人・田向重右衛門に通報したといわれています。
 手代・原田為右衛門と山留(技師)の治右衛門、炭焼人の松右衛門とともに別子に向かった田向重右衛門は、川之江川沿いを通り、小箱峠を越え弟地(別子山村)に着きました。その後、足谷川沿いを進み、苦労の末露頭を見つけ、豊かな鉱脈(長さ東西1,500m、深さ海抜1,300mから海面下1,000mの世界でもトップクラスの大鉱脈)の先端を確認しました。
 住友家四代友芳が稼行請負願を出し幕府から許可されると、翌年(1691)に別子銅山は開坑され、最初の坑口を「歓喜坑」と名付け、住友挙げての大事業が開始されました。
 天満から別子銅山までの山道の整備から開始され、採鉱元年の産銅量は約19トンといわれています。
 幕府の長崎貿易の代金払いが銀から銅に代わり、銅が最大の輸出品になると、幕府は銅山開発に力を注ぎ、元禄時代には日本の産銅量は約6,000トンに達し世界最高だったといわれ、別子銅山も開坑からわずか8年の、元禄11年に年間産銅量1,500トン以上を記録するなど、当時世界最高の産銅量を誇る銅山でした。
 元禄7年(1694)に別子銅山の焼き窯から出火した火は、ほとんどの施設を消失させたのをはじめ、銅山支配人・杉本助七ら132人の生命をも奪いました。この大火災の犠牲者をまつる蘭塔場が、銅山近くの岩山の頂きに造られ、毎年法要が営まれていました。(現在、蘭塔場の石碑は、新居浜市の瑞應寺墓地に移されています。)
 別子銅山は、西条藩の立川銅山と接していたことから、鉱区の境界紛争がたびたび発生していました。また、住友としては、別子銅山から小箱峠を経て天満に至る輸送経路が難路であったこともあり、別子銅山から立川を経て口屋へと至る輸送経路が念願でした。このようなことから、別子銅山と立川銅山を併合した大別子が宝歴12年(1762)に実現し、住友の手によって経営されるようになりました。
 粗銅や生活物資を運ぶ輸送経路も約36キロメートルから約18キロメートルに短縮され、輸送環境は改善されましたが、坑道が深くなるにつれて湧水が増えることによる排水問題など採鉱環境は悪化していました。また、幕末の産銅量が500トンを切り、幕府の御用銅の買上げ制度の廃止などにより、別子銅山の経営が危機に陥っていました。

明治時代

 明治維新となり、別子銅山も幕府との関係から新政府からの追求を受け、土佐藩による別子銅山の差し押さえなど、住友の経営が本格的な危機に直面することになりました。別子銅山支配人(のち住友家初代総理事)廣瀬宰平翁は、幕領の銅山を没収しよとした維新新政府を説得するため、川之江駐在の土佐藩・川田小一郎氏に接触し、住友による鉱山経営が国益に寄与することを説き、結局、住友の経営を守り抜きました。
 また、廣瀬宰平翁は銅山の近代化に積極的に取り組んでいました。明治7年(1874)フランス人鉱山技師のルイ・ラロックを雇い、全山調査の末「別子銅山目論見書」が翌年完成しました。ラロック案の内容は、東延から大斜坑を掘削し、それに採鉱用の支坑道を交差させる近代的大規模採鉱法の採用と、惣開に洋式精錬所を建設し、東延〜惣開の運搬経路の建設などでした。
 東延斜坑が明治9年(1876)着工、明治28年(1895)に完成したのをはじめ、明治12年(1897)別子山村に高橋精錬所の完成、明治13年(1880)別子〜新居浜間の牛車道の完成、明治21年(1888)惣開精錬所の操業開始、明治26年(1893)上部鉄道(石ヶ山丈〜角石原 5,532m)、下部鉄道(惣開〜端出場 10,461m)の開通、更に、ダイナマイト、蒸気巻き上げ機、削岩機の導入など別子銅山の近代化が進み、産銅量も増加していきました。これに伴い、別子山村の人口も12,400人を数えたといわれています。
明治22年(1889)、基地が口屋から惣開に移転され、惣開精錬所が本格的な稼働を開始すると、煙害問題が発生しました。明治27年(1894)廣瀬宰平翁が引退したあと、この問題に取り組んだのがのちの第二代総理事・伊庭貞剛翁でした。
 伊庭貞剛翁は、煙害問題解決のため精錬所を新居浜沖の四阪島へ移すことにして、明治30年(1897)建設着手、明治38年(1905)操業を開始しました。しかし、解決するはずだった煙害問題は東予一円に広がるといった、かえって深刻な事態に陥りました。この煙害の克服は、結局、昭和にはいって亜硫酸ガスから硫酸を回収し、肥料を製造する中和工場完成によってからでした。
 また、明治32年(1899)には、山津波により高橋精錬所や見花谷の従業員社宅が流され、死者513人という別子銅山大水害といった被害もありました。

大正・昭和時代
 

 銅鉱石の採掘場所が下がるとともに、大正5年(1916)採鉱本部を東延から東平(とうなる)に移転しました。
 東平は、呉木、尾端、喜三谷、柳谷、辷坂、第三、一本松、東平などから構成される部落の総称で、採鉱課事務所、病院、学校(小・中学校、保育所)、接待館、策道、電車駅、選鉱場、神社、寺、販売所、娯楽場、社宅などがあり、山の町といわれるほど賑やかでした。
 その後、東延斜坑も閉鎖されるなど旧別子時代は終焉へと向かいました。
昭和5年(1930)に、採鉱本部を東平から端出場(はでば)へ移転し、昭和48年(1973)の閉山まで端出場は採鉱拠点となりました。

通算65万トンもの銅を算出し、坑道の総延長約700Kmといった大銅山・別子銅山も、採鉱場所が海面下1,020mに達し、頻繁な湧水と地圧による坑道崩壊の危険性、鉱脈枯渇や銅価格の下落などの影響を受け、昭和48年(1973)最後の筏津坑の閉鎖により栄光の歴史に幕を閉じました。
283年の永きにわたり一企業=住友によって採鉱された鉱山は、世界にも例がありませんでした。 
 


別子銅山略年表

 
開坑〜江戸時代
明治時代前期
明治時代中期
明治時代後期
大正時代
昭和時代
平成〜

開坑〜江戸時代
年号
西暦
内容
天正18年 1590 住友業祖(蘇我理右衛門)京都にて銅製錬・銅細工開業
慶長年間 1600頃 南蛮吹(銀銅吹分け)開業
寛永年間 1636〜43 立川銅山(西条藩領)開坑
延宝8年 1680 備中吉岡銅山稼行開始
貞享4年 1687 宇摩郡三嶋村・祇太夫が別子銅山(幕領)を試掘
元禄3年 1690 備中吉岡銅山住友家支配人・田向重右衛門が別子銅山見分
元禄4年 1691 別子銅山開坑許可、採掘開始、製錬開始
元禄7年 1694 別子大火災
元禄8年 1695 大和間符(別子)と大黒間符(立川)が抜き合い境界紛争発生
元禄10年 1697 境界紛争、幕府が分水嶺を境界とすることで裁決
元禄11年 1698 別子銅山産銅量、明治以前の最高を記録(1.521t)
元禄15年 1702 住友家4代家長・友芳、幕府に産銅増加策を上申
立川中宿新居浜口屋(浜宿)を設置
享保6年 1721 代官石原新十郎支配下の伊予幕領が松山藩御預り所となる
寛延2年 1749 泉屋が立川銅山を手代名義で請け負う
宝暦6年 1756 歓東坑大湧水
宝暦12年 1762 立川銅山請負名義を住友家に変更(大別子の実現)
安永5年 1776 寛永間符(疎水坑)完成
天明5年 1785 別子本鋪大湧水
寛政2年 1790 別子開坑100年
寛政4年 1792 小足谷疎水道の開さく着手(1回目)
文化元年 1804 小足谷疎水道の開さく一時中止(1回目)
文政8年 1825 別子本鋪大湧水
天保11年 1840 別子開坑150年
天保14年 1843 別子銅山旧山願、幕府却下(1回目)
弘化2年 1845 幕府隠密が別子銅山に来山、実情調査
嘉永4年 1851 新居郡中村上原を開発
嘉永6年 1853 惣開新田(新居浜浦塩浜)を開拓
安政元年 1854 地震により坑内大湧水
安政2年 1855 別子銅山休山願、幕府却下(2回目)
文久元年 1861 小足谷疎水道の開さく(2回目)、失敗
慶応元年 1865 広瀬宰平、別子支配人となる
慶応2年 1866 幕府が長崎御用銅廃止通達 
幕府が銅山買請米精度停止通達(陳情により翌年復活)
慶応3年 1867 飯米削減による別子銅山稼人紛争発生
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明治時代前期
年号
西暦
内容
慶応4年 1868 官軍による別子銅山一時封鎖
廣瀬宰平、住友による別子銅山稼業継続出願、新政府許可
立川精銅場完成
小足谷疎水道の開さく再開(3回目)
明治2年 1869 立川精銅場操業開始(山元一貫操業が決まる)
黒色火薬の採鉱実験成功
明治3年 1870 黒色火薬使用開始
小足谷酒造場設置
明治5年 1872 蒸気船「白水丸」購入 大阪−新居浜間を就航
明治6年 1873 市立足谷小学校開校(別子山村目出度町)
フランス人鉱山技師・コワニェ別子銅山来山
小足谷酒造場で醸造成功
明治7年 1874 フランス人鉱山技師・ラロックを雇用し、近代化に着手
明治8年 1875 ラロック著「別子銅山目論見書」完成、ラロック解雇
明治9年 1876 大阪から立川へ製錬作業の移転完了
東延斜坑の開さく着手
広瀬宰平、別子近代化起業方針を示す
牛車道(目出度町〜新居浜)の開さく着手、のち一時中断
明治10年 1877 新居浜御代島築港着手
明治11年 1878 牛車道(目出度町〜新居浜)の開さく再開
小足谷疎水道の開さく一時中止(3回目)
弟地坑(のち筏津坑)開坑
弟地沈殿銅工場の建設着手
明治12年 1879 高橋洋式精錬所完成
新居浜御代島築港完成
明治13年 1880 別子山吹方に湿式収銅所完成
別子銅山山林方を設置(住友林業の前身)
ダイナマイト使用実験成功
弟地沈殿銅工場完成
牛車道(目出度町〜新居浜)完成
明治15年 1882 第一通洞の開さく着手
広瀬宰平、惣開精錬所の建設を政府に出願
ダイナマイトをわが国の鉱山で初めて採用(第一通洞)
明治16年 1883 住友私立別子病院開業(別子山村目出度町)
惣開精錬所の建設着手
小足谷疎水道の開さく再開(4回目)
明治17年 1884 小足谷疎水貫通
私立足谷小学校を別子山村へ寄附(村立となる)
明治18年 1885 弟地収銅所の建設着手
東延事業所の堰堤竣工
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明治時代中期
年号
西暦
内容
明治19年 1886 第一通洞貫通(旧代々坑口〜角石原)
山根精錬所の建設着手
小足谷疎水道の拡幅工事完成
角石原焼鉱場完成
弟地収銅所完成
私立小足谷小学校開校(別子山村小足谷)
明治20年 1887 角石原選鉱場完成
明治21年 1888 山根精錬所完成、操業開始
惣開精錬所完成、操業開始
別子銅山工作方を設置(住友重機械工業の前身)
明治22年 1889 第二通洞の開さく着手(小足谷疎水道〜寛永谷)
山根精錬所で硫酸製造開始
明治23年 1890 別子開坑200年
惣開に新居浜出店移転、惣開精錬所を合併して新居浜分店に
惣開精錬所を新居浜精錬所と改称
山根精錬所が塩化焙焼法による湿式収銅に着手
山根精錬所に製鉄係設置
明治24年 1891 複式高架索道完成(石ヶ山丈〜端出場)
立川精銅場の丁銅吹きを全廃し新居浜精錬所でKS銅製出
別子鉱山鉄道下部線(下部鉄道)の建設着手
電話線開通(別子〜立川)
第二通洞の開さくにシュラム式削岩機導入
明治25年 1892 別子鉱山鉄道上部線(上部鉄道)の建設着手        
第二通洞の開さく中止(激しい湧水による)
明治26年 1893 下部鉄道開通(端出場〜惣開)
上部鉄道開通(角石原〜石ヶ山丈)
牛車運搬廃止
煙害問題発生
明治27年 1894 第三通洞の開さく着手
山根精錬所休業
住友家総理人、広瀬宰平辞職
明治28年 1895 東延斜坑貫通(東延〜8番坑道準)
東平にペルトン水車設置(第三通洞開さく削岩機動力用)
山根精錬所廃止
四阪島購入
私立別子尋常高等小学校惣開分教場開校
明治29年 1896 高橋精錬所の拡充工事着手
新精錬所の候補地、四阪島に決定
明治30年 1897 四阪島精錬所の建設着手
単式高架索道完成(石ヶ山丈〜端出場)
端出場火力発電所完成
別子山村足谷小学校廃校
私立別子尋常高等小学校足谷分教室開校
明治31年 1898 単式高架索道運転開始、牛車、人車廃止
湿式収銅を流水沈殿を残し全廃
高橋精錬所の拡充工事完成
小足谷、東延、寛永に沈殿池完成
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明治時代後期
年号
西暦
内容
明治32年 1899 住友私設小足谷測候所開設
私設電話使用開始
別子大水害(死者513人、高橋精錬所など施設大破)
焼鉱作業を除き、新居浜精錬所の一貫製錬となる
私立住友病院を惣開に本院として移転
(目出度町の病院は出張所となる)
明治33年 1900 惣開分教場が私立住友惣開尋常小学校として開校
新居浜精錬所の大煙突完成
角石原焼鉱場をストール式に改造
伊庭貞剛総理事就任
別子銅山開坑200年を記念し、皇居前に楠公銅像献納
明治34年 1901 私立別子尋常高等小学校の校名を私立住友別子尋常高等小学校に改称
私立住友四阪島尋常高等小学校開校(生徒35人)
新居浜(惣開)に住友病院新築
弟地坑(筏津坑)休坑
明治35年 1902 端出場火力発電所完成        
第三通洞貫通(東平坑口〜東延斜坑底)
明治36年 1903 第一通洞の照明を石油灯から電気灯に
明治37年 1904 第一四阪丸進水(新居浜〜四阪島)
落シ水力発電所完成
東平第三変電所完成
新居浜精錬所の粗銅、精銅の生産終結、閉鎖
別子焼鉱場操業停止
角石原焼鉱場操業停止
四阪島精錬所完成
四阪島火力発電所完成
四阪島郵便局開局
総理事伊庭貞剛退職
明治38年 1905 四阪島精錬所の本格操業開始
角石原焼鉱場廃止
複式索道完成(東平〜黒石)
第三通洞に電車導入
東平選鉱場完成
東平収銅場完成
山根収銅所完成
坑水路完成(第三通洞〜東平〜端出場〜新居浜)
新居浜火力発電所完成
四阪島精錬所の煙害問題発生
四阪島日用品配給所開設
住友病院四阪島出張所開設
住友病院東平出張所開設
明治39年 1906 東延選鉱場廃止
私立東平尋常高等小学校開校(生徒21人)
飯場制度改革に着手
太平坑の開さく着手
四阪島に住友別邸(日暮亭)完成
四阪島娯楽場設置
明治40年 1907 別子山中で暴動発生
明治41年 1908 東平郵便局開局
日浦通洞の開さく着手
明治42年 1909 別子産銅量が6,000tを超える
明治43年 1910 第四通洞の開さく着手
四阪島精錬所の煙害に関し、第1回の賠償契約成立
明治44年 1911 日浦通洞貫通(東延斜坑底〜日浦)第三通洞と連絡
上部鉄道廃止
第一通洞の牛車運搬廃止
索道廃止(石ヶ山丈〜端出場)
角石原選鉱場廃止
大立坑の開さく着手
小足谷酒造場の醸造中止
明治45年 1912 端出場水力発電所完成        
東平娯楽場設置
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大正時代
年号
西暦
内容
大正元年 1912 端出場水力発電所発電開始        
自彊舎開設(別子山方)
大正2年 1913 住友肥料製造所開設(住友化学工業の前身)
大正3年 1914 四阪島精錬所の六本煙突完成
広瀬宰平没
大正4年 1915 大山積神社を目出度町から東平へ奉遷
大立坑が第四通洞に到達
第四通洞貫通(端出場坑口〜大立坑)
大正5年 1916 採鉱本部を東延から東平に移転
東平浮遊選鉱試験工場完成
弟地坑(筏津坑)の探鉱再開
自彊舎を別子山村から東平に移転
蘭塔場の石碑を瑞応寺へ移設
大正6年 1917 弟地坑を筏津坑の名で探鉱再開
余慶坑開坑
私立住友惣開小学校鹿森分教場開校
住友病院端出場出張所開設
大正7年 1918 積善坑開坑
大正8年 1919 端出場仮手選鉱場完成
新居浜電錬(精銅)工場完成
大正9年 1920 住友予州親友会設立
東平粉鉱選鉱場(比重選鉱)完成
大正10年 1921 四阪島精錬所大改造着手
大正11年 1922 東平粒鉱選鉱場(比重選鉱)完成
大正12年 1923 全坑水を第四通洞から排水
大正13年 1924 四阪島精錬所の大煙突完成
大正14年 1925 新居浜浮遊選鉱場(新居浜選鉱場)完成、星越駅設置
坑内に蓄電池式機関車導入
端出場手選鉱場の建設着手
住友病院筏津診療所開設
大正15年 1926 東平比重選鉱設備を新居浜選鉱場に移転
自彊舎を東平から川口新田に移転
伊庭貞剛没
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昭和時代
年号
西暦
内容
昭和2年 1927 端出場手選鉱場完成
鷲尾勘解治、最高責任者となり末期の経営を説く
昭和3年 1928 大山積神社を東平から川口新田に奉遷
筏津手選鉱場完成
山根収銅所拡張
東平収銅所廃止
四阪島精錬所のペテルゼン式硫酸工事第1期工事着工
山根グラウンド完成
住友病院東平出張所を分院に
住友病院四阪島出張所を分院に
昭和4年 1929 四阪島精錬所のペテルゼン式硫酸工事第1期工事完成
新居浜築港計画出願
別子鉱山鉄道を専用鉄道から地方鉄道に転換
昭和5年 1930 四阪島精錬所のペテルゼン式硫酸工事第2期工事完成
東平選鉱場廃止
採鉱本部を東平から端出場に移転
東延斜坑の使用中止
川口新田倶楽部完成
昭和6年 1931 昭和通り完成
住友病院山根分院開設
昭和7年 1932 四阪島精錬所のペテルゼン式硫酸工事第3期工事完成
東延斜坑廃止
昭和9年 1934 別子銅山の全鉱石を浮遊選鉱に
昭和10年 1935 東平〜黒石(東黒索道)を短縮して東平〜端出場(東端索道とする)
索道完成(太平坑〜東平)
探鉱通洞の開さく着手
新立坑の開さく着手
筏津娯楽場設置
昭和11年 1936 別子鉱山鉄道新居浜港線開通(星越〜新居浜港)
住友別子病院新築工事完成
住友倶楽部、泉寿亭完成
ほぼ全面的に削岩機に切り替え、手堀りはほとんどなくなる
昭和12年 1937 四阪島精錬所の中和工事第1期工事着工
住友倶楽部完成(住友5社共同施設)
泉寿亭完成(住友5社共同施設)
昭和13年 1938 四阪島精錬所の中和工事第1期工事完成
駕籠電車運転開始(東平〜日浦)一般利用にも提供
昭和14年 1939 新居浜港完成
四阪島精錬所の中和工事第2期工事完成、排ガス完全処理に成功
四阪島精錬所の煙害問題が完全解決
昭和15年 1940 別子開坑250年
新立坑完成
昭和16年 1941 私立住友惣開小学校を新居浜市に移管、鹿森分教場は東平小学校の分教場となる。
昭和17年 1942 別子鉱山鉄道国鉄新居浜駅連絡線開通(滝の宮〜新居浜駅)
昭和18年 1943 探鉱通洞貫通(大立坑〜筏津坑下部)第四通洞と連絡
昭和21年 1946 別子復興運動始まる
昭和22年 1947 学制改革により、別子学園東平小・中学校、別子学園四阪島小・中学校に改称
昭和23年 1948 別子銅山下部開発起業着手
昭和25年 1950 別子鉱山鉄道の電化完成
別子百貨店開設
昭和26年 1951 別子百貨店が別子大丸と改称
昭和29年 1954 別子銅山上部開発・中部開発起業着手
昭和30年 1955 別子鉱山鉄道が地方鉄道から専用鉄道に再転換
別子銅山下部開発起業完成
新居浜電錬工場を新居浜精銅工場と改称
昭和31年 1956 別子銅山上部開発・中部開発起業完成
昭和32年 1957 索道廃止(太平坑〜東平)
昭和33年 1958 別子銅山筏津下部開発起業着手
昭和35年 1960 大斜坑の開さく着手
昭和36年 1961 別子学園(東平・四阪島小・中学校)公立に移管
四阪島精錬所のペテルゼン式硫化工場を新式に改造
別子銅山30番坑道準で富鉱帯に着脈
昭和38年 1963 大斜坑の開さく計画変更
別子銅山筏津下部開発起業完成
昭和40年 1965 地圧増大による山鳴り発生
昭和41年 1966 住友病院山根分院廃止
昭和43年 1968 東平坑終掘、東平撤退
索道廃止(東平〜端出場)
新居浜市立東平小、中学校廃校、鹿森分校は新居浜市立角野小学校の分校となる
昭和44年 1969 大斜坑貫通(端出場坑外〜32番坑道準)
東予精錬所の建設着手
昭和45年 1970 新居浜市立角野小学校鹿森分校廃校
中部坑終掘
昭和46年 1971 東予精錬所完成、生産開始
昭和47年 1972 山ハネ現象発生
本山坑坑内作業停止
駕籠電車廃止(東平〜日浦)
昭和48年 1973 筏津坑終掘により別子銅山休山
昭和50年 1975 別子銅山記念館開館
別子鉱山鉄道新居浜港線廃止
別子大丸が新居浜大丸と改称
昭和51年 1976 四阪島精錬所の銅製錬の操業終結
昭和52年 1977 別子鉱山鉄道下部線(下部鉄道)廃止
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平成〜
年号
西暦
内容
平成2年 1990 別子開坑300年
平成3年 1991 マイントピア別子端出場ゾーン オープン
平成4年 1992 別子銅山記念図書館開館
平成6年 1994 マイントピア別子東平ゾーン オープン
平成9年 1997 広瀬歴史記念館開館
平成13年 2001 旧住友銀行新居浜支店が登録有形文化財となる
平成15年 2003 旧広瀬邸が登録有形文化財となる
平成17年 2005 遠登志橋が登録有形文化財となる
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近郊の観光地/市内