東人の新居浜生活/近郊の観光地/新居浜市内/内宮神社
別子銅山記念館の近くに、生子橋という赤い橋があり、この橋を渡ると、内宮(ウチノミヤ)神社に続く険しい石段が始まる。
この階段の北側に少し緩やかな石段があり、10月の太鼓祭りの「お宮入り」時には、この石段を太鼓台が駆け上がるらしい。
また、石段の途中には、かつて鉱山鉄道が通っていた跡地が確認できる。
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階段の途中には鉱山鉄道の通っていた跡がある。 |
内宮神社 |
御祭神 天照皇太御神
御由緒
当内宮神社は伊勢内宮天照大御神を勧請し奉る。
慶雲三年(706年)社殿を建立する。後年所を経て正慶(1332年)年中にいたって再興する永禄年間に生子山城主松本三河守、金子城主金子備後守、岡崎城主藤田大隅守、等崇敬して神領若干を寄付する。
天正13年豊臣秀吉の四国征伐に当たり芸州より毛利家の小早川隆景が此の地方を襲撃し社寺悉く兵火に罹る。当神社も亦同時に炎上し社殿宝物古記録残らず焼失し亦神領も失う。
慶長3年(1598年)氏子相謀り社殿を再興し僅かに祭礼を行う(祭日9月19日)。慶長3年内宮伝記より。
慶長19年(1614年)9月29日、旧社地の宮原に社殿を復興、元禄11年(1698年)7月22日、山根の現地に移って、68年後の明和3年(1766)9月30日の夜、拝殿が炎上焼失した。
その後38年の歳月を要して、文化元年(1804年)9月22日、新拝殿を再興した。
それから、50年後の宝暦3年(1753年)9月29日、神輿渡御の行事が始まった。太鼓台が、氏子に出現し始めたのも、このころからと思われる。【角野のあゆみ】