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惣開の石碑は、新居浜の歴史の中で重要な位置を占めるモニュメントである。
明治23年、別子開坑200年を記念して建てられた石碑であり、嘉永年間に清水総右衛門が開いた惣開の地に、鎔鉱試験炉および実証炉のピロチェ炉を設置したことを記録している。 惣開は日本の臨海工業地帯のさきがけであり、工都としての新居浜のスタートを記念する重要な石碑である。 この石碑は、当初は住友化学歴史資料館のある所に建てられていたが、その後、一時は住友化学の倉庫の中で眠っていたという。 住友化学の重役の方が、この重要な石碑の存在を知り、住友化学愛媛工場の中に移された。工場の敷地内のため、暫くの間は一般の人は見ることができなかったが、最近になって住友化学歴史資料館の敷地内に戻された。 |
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高橋泥舟(1835〜1903) 幕末〜明治期の槍術家・書家。名は精一、泥舟は号。 幕末の動乱期には、幕臣として遊撃隊の頭取を勤め、徳川慶喜の護衛にあたる。 明治4年(1871)の廃藩置県後は、東京で隠居。槍を筆に替えて書を楽しむ。 勝海舟、山岡鉄舟とともに幕末三舟と称される。山岡は義弟でもある。 |
明治23年(1890)5月、別子は開坑200年を迎えた。 前年住友家は広瀬宰平が中心となって、この報恩を末永く後世に伝えるため、宮内省へ楠正成銅像の献納を内願し、内諾を得ていた。 同24年4月住友家は東京美術大学(現、東京芸術大学)へ楠正成銅像の製作を依頼した。 同月27日、同校長岡倉天心(覚三)は、高村光雲(幸吉)を製作主任に、山田鬼斎(常吉)・後藤貞行・石川光明を製作担当に任じ、26年3月原型木彫が完成した。 同月21日には、明治天皇の天覧を賜っている。 同年10月9日、住友家は楠正成銅像の献納を宮内省に正式出願、11月1日に許可を得た。 同29年に東京美術大学教授岡崎雪聲によって銅像の鋳造を完成し、同33年7月14日、皇居前広場の台座完成を機に鎮座、今日に至っている。 楠公銅像は、明治期における西洋近代彫刻への挑戦であり、当時最高の技術を結集した美術品であった。 |
高村光雲 (1852〜1934) |
江戸浅草出身の彫刻家。
文久3年(1863)、高村東雲の門に入って木彫を学び、後に師の姉の家を継いで高村姓となる。明治22年(1889)、東京美術学校木彫科の教師となり、翌年は帝室技藝員となり、東京美術学校教授となった。明治初期の木彫界衰退期に西洋画の写実を参考とした写生を取り入れ新風をまきおこし、近代木彫の発展に大きな業績を残した。 楠公銅像製作では製作主任となり、主に頭部を担当した。 |
後藤貞行 (1849〜1903) |
和歌山県出身の彫刻家。
和歌山藩士の家に生まれ、慶應2年(1866)、藩命によって騎馬術を学び、藩の騎兵となった。この期間に、図画及び画学・洋画・馬匹解剖学・種馬の研究による馬の外貌及び相馬学などを学んだ。理想的な馬を形象に留めるため、鋳造原型を学んだが吹き損じて形が失われてしまったので、木彫を始めた。この修行中に高村光雲と出合い、これが機会となって楠公の製作に携わった。 楠公銅像製作では、馬の部分を担当し、製作途中事故により片目を失いつつも完成させた。 |
山田鬼斎 (186〜1901) |
福井県坂井港出身の彫刻家。
代々仏師の家に生まれ、父に随って仏像彫刻を学んだ。その後、奈良で古い彫刻について研究し、明治29年(1896)東京美術学校教授となった。 楠公銅像製作では、甲冑その他身体部分を担当した。 |
石川光明 (1852〜1913) |
東京浅草出身の彫刻家。
狩野素川に就いて絵画を学ぶ傍ら父祖の業を継ぎ木彫を学んだ。更に菊川正光の門に入り牙角彫刻を習う。 明治24年(1891)、東京美術学校教授となった。 楠公銅像製作では、山田鬼斎を助け甲冑その他身体部分を担当した。 |
岡崎雪聲 (1851〜1932) |
京都府伏見出身の彫刻家。父は定甫と号する釜師であった。
その業を学んだ後、上京して鋳工を学んだ。関西古寺院の仏像について調査研究し、東京美術学校が楠公銅像製作に着手した明治23年(1890)に後藤貞行と前後して同校に入り、29年に教授となった。 楠公銅像製作では、鋳造を担当した。 |