東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内旧別子旧別子(4)


旧別子(4)


牛車道

   
 別子の山に残るやや緩やかな登山道が牛車道である。
 かつて、旧別子から銅山越を越え、立川を経て新居浜口屋までの物資輸送路であった。
 
 この牛車道は、広瀬宰平の元に雇われたフランスの鉱山技師ラロックの提案によるものであるが、ラロックの設計では 約53kmにもわたる長大なものであった。
 広瀬宰平は、ラロックの案から迂回路を廃し、勾配を急にして 約28km のものとして、明治9年に車道の敷設工事に着手したという。
 

 この付近の牛車道には、ボーリングのコアが多数落ちている。
 持ち帰って文鎮として使っている人も多いという。
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大和間符

   牛車道の途中で銅鉱石の露頭が確認できる。
 
 その近くに、古い坑口である大和間符の跡がある。
 初期の坑道は狭い構造であったことがわかる。
 


旧別子案内 No 20
大和間符

 
 元禄時代の古い坑道の跡で、人一人がやっと通れる位のせまいものである。
 元禄8年(1695)、ここと立川銅山(別子開坑の60年位前から稼働していた嶺北角石原側の銅山で、当時西条領であった)の大黒間符が偶然に貫通し、境界争いとなって紛糾した。
 のち、立川銅山は経営不振から、宝暦12年(1762)になって別子銅山に吸収合併され、住友家の経営に移った。ここから牛車道に沿ってしばらくの間は、道の山側に銅の露頭が表れている。
 牛車道を別れて西へ、沢をつめる小道は笹ヶ峰への縦走路である。
 
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銅山越

   
 銅山越は当時、別子山村と新居浜とを結ぶ重要な峠路であった。
 
 ここには、蘭塔場のようなコの字型の石積があり、この中に無縁仏を供養するための石仏が安置されている。
 
 


旧別子案内 No 21
銅山越

  
 この銅山越は、多くの歴史を秘めた旧別子銅山の嶺南部(別子山村)と嶺北部(新居浜市)とを結ぶ峠路である。
 眼下に展開するのは旧別子銅山の遺跡であり、ここは元禄4年(1691)の昔より大正15年(1916)に至る225年の長きに渡って、銅山の採鉱と製錬の中心地として栄えていた。
 峠の西北より東南にかけて、厚さ 2〜8 m、巾 1,100m のレンズ状をした別子型鉱床が、45度から65度の傾斜で北へ深く貫入している。この下から右方の牛車道を通ると、銅山の全貌が眺められる。
 

 銅山越近くから見た新居浜方面。
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西赤石山


 西赤石山(1,626m)山頂
おいおい、そこに立っている人、邪魔だよ!。
 銅山嶺ヒュッテが遠くに見える
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植林事業


 旧別子を訪れて感じたこととして、昔は栄えた地域が今は山林の中に埋もれているということであった。
 石垣は今でも残っているが、木々が生えた山林の中に埋まっている。
 人が居なくなって、自然に還ったものかとも思ったが、このような状態にするのに、植林がなされたことを知った。
 昔の旧別子は銅山開発により木々が切り倒され、銅山関係の施設や住宅が建てられていたという。その後、銅山の主体が下の方に移ることになり、荒れ果てた山々が残っていた。
 荒れた山が、自然の姿に戻されたのは植林によるものであった。
 
 この植林を推進した人物が、明治の頃の別子鉱山支配人の伊庭貞剛であった。  

 
 このまま別子の山を荒蕪するにまかせておくことは、天地の大道に背くのである。
 どうかして濫伐のあとを償ひ、別子全山を旧のあをあをとした姿にして之を大自然にかへさねばならない
 
伊庭貞剛(明治30年頃) 伝記「幽翁」より
      
 

 伊庭貞剛の強い意志により、毎年100万本の植林が行われた。全山測量を行い、明治36(1903)年の施業案規則を制定し、これに従い森林計画が実施されたという。
 その結果として、現在の旧別子に見られる、山林の中に散在する旧別子銅山の遺跡を見ることができるのである。
 

 
 
伊庭貞剛
 
 出身地 近江国野洲郡八夫村(現・滋賀県野洲郡中主八夫)
 生年月日 弘化4年(1847) 1月5日
 没年月日 大正15年(1926) 10月23日


 
略歴                                                         
明治2年(1869) 刑法官少監察に任官         
弾正台京都支部巡察属に任命される
明治3年(1870) 弾正台東京本部巡察属へ転任
明治4年(1871) 権大巡察となり弾正台長崎出張所へ         
司法省司法少解部に任命され東京へ(8月3日)         
司法省司法大解部に昇進(10月28日)
明治5年(1872) 司法省司法検事に任命される
明治6年(1873) 函館裁判所検事へ転任
明治7年(1874) 函館裁判所権中検事、権少検事へ昇進
明治8年(1875) 函館裁判所副判事、七等判事へ昇進
明治9年(1876) 大阪裁判所へ転任
明治10年(1877) 大阪上等裁判所判事に任命される
明治11年(1879) 辞表提出
明治12年(1879) 依頼免官の辞令(1月23日)         
住友家入社重任局(二等)(2月1日)         
住友大阪本店支配人(一等)に任命される(5月)         
別子銅山視察(10月)
明治14年(1881) 住友大阪本店支配人(上級三等=重役)に昇進
明治19年(1894) 住友大阪本店支配人(上級二等=重役)に昇進
明治27年(1894) 別子大改革のため、単身別子銅山へ向かう(2月)         
別子銅山支配人へ転任(7月4日)
明治30年(1897) 住友家総理事心得に就任(1月)
明治32年(1899) 住友大阪本店へ帰任
明治33年(1900) 住友家第2代総理事に就任(1月5日)
明治37年(1904) 総理事を辞職(7月6日)
大正15年(1926) 80歳にて死去(10月23日)

主な功績
 
 経営負担となっていた湿式製錬法、硫酸製造、製鉄事業の廃止を決断した。
 第三通洞の開さくを指揮した。
 三角坑の排水を実現させ、富鉱帯の採鉱を可能にした。
 煙害防止のため四阪島を購入し、精錬所移転を指揮した。
 荒涼とした別子全山に自然の緑を取り戻すため、植林事業を興した。
 
 
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