東平歴史資料館
鉱山運搬機器展示場 東平の産業遺産 マンプ 銅山の里「自然の家」 |
昔の東平
東平最後の大雪 |
東平歴史資料館 | 東平歴史資料館入口 |
280余年の別子銅山の歴史のなかで、東平時代は、採鉱本部が東延から移転してきた大正5年から、端出場に移転する昭和5年までの15年間です。 しかし、この間の粗鉱量は著しく、全体の五分の一を占めています。 鉱山集落としての東平は昭和43年になくなりましたが、新居浜の原風景として残り、 都市の明日を思索するには、またとない地となっています。 |
西暦 | 年号 | |||||||||||||||||||||||||||||||
1895 | 明治28年 | ペルトン水車設置(第三通洞削岩機動力用) | ||||||||||||||||||||||||||||||
1902 | 明治35年 | 第三通洞開通 | ||||||||||||||||||||||||||||||
1905 | 明治38年 | 東平〜黒石間に複式索道設置
第三通洞に電車導入 東平選鉱場(比重選鉱)建設 東平・山根収銅所設置 第三通洞〜東平〜端出場〜新居浜間の排水路完成 私立住友病院東平出張所開設 呉木の社宅建築が始まる |
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1906 | 明治39年 | 私立住友東平尋常高等小学校開校 | ||||||||||||||||||||||||||||||
1908 | 明治41年 | 東平郵便局開設 | ||||||||||||||||||||||||||||||
1911 | 日浦通洞開通 | |||||||||||||||||||||||||||||||
1912 | 明治45年 | 東平娯楽場設置 | ||||||||||||||||||||||||||||||
1915 | 大正4年 | 第四通洞貫通 | ||||||||||||||||||||||||||||||
1916 | 大正5年 | 採鉱本部を東延から東平に移転
東平に浮遊選鉱試験工場設置 1920 |
大正9年 |
東平粉鉱選鉱設備(比重選鉱)増設 |
1922 |
大正11年 |
東平粒鉱選鉱設備(比重選鉱)増設 |
1926 |
大正15年 |
新居浜選鉱場(浮遊選鉱)完成にともない東平選鉱場(比重選鉱)を閉止 |
1928 |
昭和3年 |
山根収銅場拡張。東平収銅所廃止。 |
1930 |
昭和5年 |
採鉱本部を東平から端出場に移転 |
1935 |
昭和10年 |
東平〜端出場間の索道完成 |
1936 |
昭和11年 |
土井晩翠 東平接待館に宿泊する。 |
1938 |
昭和13年 |
東平〜日浦間に「かご電車」運転開始。一般の利用にも提供 |
1968 |
昭和43年 |
東平坑休止 |
1973 |
昭和48年 |
筏津坑終掘。別子銅山閉山 |
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5月の山神祭の3日間、東平は祭一色に包まれました。 その主な舞台が、明治45年に建築された娯楽場でした。ここでの上方歌舞伎は圧巻で、役者たちは山かごに乗って東平に来ました。回り舞台があり桝席や花道もあった本格的なものでした。戦後は、映画の上映や楽団による演奏会、ダンスの練習、集会など使われました。 入口の橋や桜は今も、往時を偲ばせています。 | |
娯楽場の模型 | |
この学校の60余年間は、東平の盛衰をそのまま映し出しています。 明治39年、私立住友東平尋常高等小学校として児童20人で開校し、昭和2年には695人を数えました。昭和36年に新居浜市へ移管され、昭和43年3月東平坑休止にともない閉校となりました。私立時代は先生も「社員」でした。戦後は、剣道、卓球、コーラスなどに優秀な成績を残しています。 厳冬のため、冬休みの方が夏休みより長かったそうです。この学校の跡地は、現在、銅山の里「自然の家」となっています。 |
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小学校の模型 | |
東平の住宅は、そのほとんどが社宅でした。 これは明治30年代末頃に建築した呉木の社宅で、第三通洞が開通した後の東平地区では最も古いもののひとつです。冬の雪に備え屋根はトタンでした。 鍵もかけず、無料の共同浴場や共同水場もあり、これが社宅内を家族的な雰囲気にしていました。山中だっただけに火事には細心の注意を払っていました。 |
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住宅の模型 | |
マイン工房 |