東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内東平


東平


 
 東平は「とおなる」と読むが、ここは大正5年(1916)から昭和5年(1930)まで別子銅山の採鉱本部が置かれ、昭和43年の東平坑終掘まで、山の町として鉱山で働いていた人の住居のあったところである。最盛期には、約3,700人が生活していたそうである。

 東平は、昔は「当の鳴」と呼び、後に「東平」と呼ぶようになりました。開拓によって平坦にされた土地を「鳴」とか「平」と書くそうです。
 大正5年に採鉱本部が東延から東平に移され、従業員の社宅、学校(小中学校、保育所)、病院、郵便局、接待館、索道、電車駅、選鉱場、神社、寺、販売場、娯楽場などがあり栄えたそうです。
 明治35年に貫通した第三通洞(約1,800m)と明治44年に完成した日浦通洞(約2,000m)を利用すると、鉱山鉄道の籠電車で東平〜日浦(別子山村)間を僅か30分で通り抜けたと言われています。
 
 ある案内図には東平はマイントピア別子の少し先のように書かれていたが、とんでもない道であった。マイントピアを少し過ぎると道幅が狭くなり、対向車とのすれ違いも難しくなる。さらに細い脇道を入る。
 車で行くにも大変な道であったが、かつて東平が栄えていた時期に、親の商売を手伝って東平に行ったという人の話を聞いた。家業は美容師だったそうだが、東平まで商売に行くのに重い機材を背負わされ麓から歩いて行ったそうである。

 道が狭いことより、東平には一度訪れただけであったが、2000年8月19日、近代化産業遺産全国フォーラムの視察に参加して再度訪れた。
 
 その後も、旧別子方面の登山で立ち寄ったり、一人で立ち寄ったりと、何度か訪れた。
 
 
東平歴史資料館

鉱山運搬機器展示場

東平の産業遺産

マンプ

銅山の里「自然の家」

      昔の東平

東平最後の大雪


東平歴史資料館

 
 東平の中心となるのは東平歴史資料館であり、最盛期の社宅や学校の様子などのジオラマ、地形模型、写真および映像などで紹介されている。
 
 歴史資料館の周囲には、銅細工のできるマイン工房が設置されている。また、索道跡などの産業遺産とともに旧社宅を復元した家などが展示されている。
東平歴史資料館 東平歴史資料館入口

東平

 280余年の別子銅山の歴史のなかで、東平時代は、採鉱本部が東延から移転してきた大正5年から、端出場に移転する昭和5年までの15年間です。
 しかし、この間の粗鉱量は著しく、全体の五分の一を占めています。
 鉱山集落としての東平は昭和43年になくなりましたが、新居浜の原風景として残り、 都市の明日を思索するには、またとない地となっています。 
 
  東平の歴史
西暦  年号   
1895  明治28年  ペルトン水車設置(第三通洞削岩機動力用) 
1902  明治35年  第三通洞開通 
1905  明治38年  東平〜黒石間に複式索道設置
第三通洞に電車導入
東平選鉱場(比重選鉱)建設
東平・山根収銅所設置
第三通洞〜東平〜端出場〜新居浜間の排水路完成
私立住友病院東平出張所開設
呉木の社宅建築が始まる 
1906  明治39年  私立住友東平尋常高等小学校開校 
1908  明治41年  東平郵便局開設 
1911    日浦通洞開通 
1912  明治45年  東平娯楽場設置 
1915  大正4年  第四通洞貫通 
1916  大正5年  採鉱本部を東延から東平に移転
東平に浮遊選鉱試験工場設置
1920  大正9年  東平粉鉱選鉱設備(比重選鉱)増設 
1922  大正11年  東平粒鉱選鉱設備(比重選鉱)増設 
1926  大正15年  新居浜選鉱場(浮遊選鉱)完成にともない東平選鉱場(比重選鉱)を閉止 
1928  昭和3年  山根収銅場拡張。東平収銅所廃止。 
1930  昭和5年  採鉱本部を東平から端出場に移転 
1935  昭和10年  東平〜端出場間の索道完成 
1936  昭和11年  土井晩翠 東平接待館に宿泊する。 
1938  昭和13年  東平〜日浦間に「かご電車」運転開始。一般の利用にも提供 
1968  昭和43年  東平坑休止 
1973  昭和48年  筏津坑終掘。別子銅山閉山 
                    
娯楽場

 5月の山神祭の3日間、東平は祭一色に包まれました。
 その主な舞台が、明治45年に建築された娯楽場でした。ここでの上方歌舞伎は圧巻で、役者たちは山かごに乗って東平に来ました。回り舞台があり桝席や花道もあった本格的なものでした。戦後は、映画の上映や楽団による演奏会、ダンスの練習、集会など使われました。
 入口の橋や桜は今も、往時を偲ばせています。
 
娯楽場の模型
小学校

 この学校の60余年間は、東平の盛衰をそのまま映し出しています。
 明治39年、私立住友東平尋常高等小学校として児童20人で開校し、昭和2年には695人を数えました。昭和36年に新居浜市へ移管され、昭和43年3月東平坑休止にともない閉校となりました。私立時代は先生も「社員」でした。戦後は、剣道、卓球、コーラスなどに優秀な成績を残しています。
 厳冬のため、冬休みの方が夏休みより長かったそうです。この学校の跡地は、現在、銅山の里「自然の家」となっています。
 
小学校の模型    
社宅

 東平の住宅は、そのほとんどが社宅でした。
 これは明治30年代末頃に建築した呉木の社宅で、第三通洞が開通した後の東平地区では最も古いもののひとつです。冬の雪に備え屋根はトタンでした。
 鍵もかけず、無料の共同浴場や共同水場もあり、これが社宅内を家族的な雰囲気にしていました。山中だっただけに火事には細心の注意を払っていました。
 
住宅の模型       
マイン工房

【関連URL】
       日本の金属鉱山
       街道物語
       新居浜工業高校のホームページ



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