東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内立川


立川


立川

 
 立川(たつかわ)には、江戸時代に新居浜口屋と銅山の物資輸送の中継地として立川中宿(分店)が置かれた。
 
 明治元年(1868)には、最終銅製品に仕上げる精銅場が併設され、翌年から操業を開始した。
 
 銅山から降ろされた粗銅は、ここで丁銅に加工され、新居浜から神戸に運ばれ輸出された。
 
 立川の精銅場は、明治24年に惣開精錬所に移転し、現在、跡地は広場となっている。
 


 
 2006年、市内の8箇所に産業遺産説明板が設けられたが、広場の西の段には「立川中宿・立川精銅所跡」の説明が設置されている。

 
明治23年の立川分店及び眼鏡橋(不朽橋)

立川中宿・立川精銅所跡
 
 別子銅山と新居浜口屋(銅山の諸物資購入と粗銅の大阪廻船を取扱)を結ぶ物資運搬の中継基地。元禄15年(1792)設置。
 江戸時代、立川中宿と別子銅山間の険しい山道は、立川中持ちと呼ばれる人々によって、生活物資の荷揚げと粗銅の荷下げが行われており、立川中宿がこれを統括した。そのため、銅蔵や米蔵など諸物資を一時保管するための蔵で囲まれていた。
 明治2年(1869)、政府が山元での最終精錬を認めたため、別子銅山支配人広瀬宰平は、立川精銅所を新設し、大阪鰻谷の銅精錬にとって代わった。明治9年(1876)、組織改革によって立川出店となり、さらに明治15年(1882)、立川分店となって、精銅方・会計方・運輸方を置いた。
 しかし、別子鉱山鉄道の完成(明治26年-1893-)を間近に控え、明治24年(1891)4月、端出場−石ヶ山丈間の複式索道が完成すると、立川分店の運輸業務は、その役割を終える。さらに、明治24?年(1888)に操業を開始した惣開精錬所の型銅生産が軌道に乗ると、粗銅はすべて同所で型銅に精製されることになり、明治24年(1891)5月、立川分店は新居浜分店の出張所となった。

 たつかわなかじゅく・たつかわせいどうしょあと
小学生用解説

 別子銅山と新居浜口屋(今の口屋跡記念公民館)の中間につくられた銅や食べ物を運ぶための中継基地。1702年につくられ、1876年に立川出店、1882年に立川分店となり、たくさんの倉庫があった。
新居浜市
 



広場には供養塔が建てられている。
 碑文によると、明治32年の別子大水害での犠牲者のために建てられたものであった。

 
碑文

 明治32年8月28日(1899)四国地方に台風が上陸し、大暴風雨は各地域で洪水の被害を起こしたが、特に愛媛県新居郡 宇摩郡地域は風雨が激しく別子山村を中心に、多くの人々が家屋共々濁流にのまれ 押し流された。
 多くは銅山川から吉野川へ流されたが 一部は足谷川から国領川を通り瀬戸内海へと流された。その後数日にして 仁尾沖に夥しい流木と共に 33人の遺体が浜に打上げられた。仁尾の住民は、身元の確認もされないまま南の墓地に埋葬し、後に碑を建て毎年供養を行っている。
 私達立川の住民も、この碑の存在を知り、平成5年11月に有志により現地を訪ね御礼と法要を営み供養をした。
 平成5年8月 当地に供養塔を建立し地域住民一同による盛大な落成法要を実施し意識を深めた。
 その後、、平成10年8月30日は、この碑の前で地域住民と住友鉱山 その他関係者一同による 百年忌祭を実施し、遭難者の冥福を祈り供養を行った。
 


 
 広場の奥には柳原極堂の句碑が設けられていた。


柳原極堂
手のひらに いただく
    春の光かな


 松山の産、新聞記者で俳人の柳原極堂は子規の心友である。地元の俳人本田三嶺子は極堂翁のおおらかな人柄を深く敬慕し、子弟の礼を執った。
 この句は極堂87才の自祝句。
 昭和31年翁90才のとき三嶺子がこれを拝領。新居浜市松原の自宅へ句碑を建立したが、今回、近藤廣仲氏の好意に依り当地へ移設した。
新居浜のむかしばなし(平成元年2月「新居浜のむかしばなし」編集委員会編 新居浜市教育委員会 発行)より
立川


 景行天皇弟十二皇子武国凝別乃君が伊予の御村(新居・宇摩・周桑の三郡)を治めた。その子孫意古乃別君や、竜古乃別君が種子川山、立川山を開発し、竜古乃別君は現在竜河神社に祀られている。
 往古は立川を「竜古」(たつこ)と呼び、川に竜が住んでいる伝説から「竜河」、更に立川となった。
 龍川橋 
 
 
 昔は眼鏡橋(不朽橋)がかかっていたが、明治32年の水害で流されたそうだ。
 
 
 
 アー行こうか戻ろうか銅山山へ   
  ここは思案の眼鏡橋
 
  (別子銅山せっとう節より)


  2008年、市内の10箇所に産業遺産説明板が設けられ、立川の眼鏡橋が見える牛車道跡付近にも説明板が設置された。


 
 
明治14年の眼鏡橋(住友史料館蔵)

牛車道跡・眼鏡橋跡
 
 牛車道は、開坑以来の人肩運搬に代わる新車道。明治9年(1876)に着手したが、明治10年(1877)に勃発した西南の役により労働者や火薬の確保が困難になったことと、技術力の限界から一時開鑿を中断した。明治11年(1878)に開鑿を再開し、明治13年(1880)に目出度町から銅山峰・石ケ山丈を経由して立川仲宿までの約20kmが完成した。翌年から立川中宿から新居浜口屋までの約8kmが使用され、別子山の目出度町から新居浜口屋までの約28kmが使用された。牛車の牛は、広瀬宰平の故郷である近江牛が連れてこられた。
 眼鏡橋は、明治11年(1878)に牛車道の一環として立川中宿入口の国領川に一部花崗岩づくりで架けられた。その堅牢さから不朽橋と命名された。明治32年(1899)の別子大水害のときに、頑強であるが故にダムの役目を果たし、濁流を受け止めた後に流出した。

 きゅうしゃみちあと・めがねばしあと
小学生用解説

 牛車道は、牛に荷車を引かせて荷物を運んだ道。  新居浜口屋(今の口屋跡記念公民館)から別子銅山までおよそ28kmあった。  眼鏡橋は、立川にあった強くてがんじょうな橋であったが、大水害で流された。 その後、新しい橋は、少し下流に架け替えられた。
新居浜市
 



    
 
 立川附近で、このような木箱が置かれているのを見かけた。
 
 この木箱が何のためのものか、分からない。
 
 同じような木箱を、
遠登志〜東平の山道の東平寄りの所でも見かけた。

  
 立川の山寄りには、鉱山鉄道の跡が確認できる。
物言嶽トンネル 車屋トンネル
物言嶽という地名について
 
 立川から少し北側に物言嶽(ものいいだけ)という地名の場所があり、そこにあるのが物言嶽トンネルである。
 
 昔、立川に住んでいた人が息子を連れて山を下りたという。
 その帰り道、親子で夜道を歩いていたが、この物言嶽付近から息子の声が聞こえてこなくなった。しかし、息子は後をついてきているものと思いそのまま帰路を急いだ。
 立川に帰り着き、後ろを見ると息子がいなかった。探し回るが息子は見つからなかった。
 川に落ちたのだろう。

 それ以後、この付近を通る人は、ここで子供の声が聞こえてくるのを耳にするようになったという。
 そして、人々はここを物言嶽と呼ぶようになった。

   
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