東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内大山積神社

大山積神社

 別子銅山記念館は、大山積神社の境内の中にある。
 
 大山積大神(大山津見大神、大山祇大神)は山を支配する神であると同時に海の神でもあり、地神海神兼備の霊神として日本民族の総氏神、日本総鎮守の神として崇敬されてきた。
 この大山積大神を祀ったのが愛媛県越智郡大三島町宮浦にある元国幣大社の大山祇神社である。
  
 さて、元禄四(1691)年、別子銅山稼行に際し、住友家が鉱山鎮守の神として大三島のご分霊を頂き、別子山村足谷に祀られたのが別子大山積神社の縁起である。
 明治26年には別子山村足谷の目出度町に遷座、その後採掘の中心の下部移行にともない、新居浜市山根町の内宮神社に仮遷座され、昭和3年に現社地に正遷座された。
 別子銅山鎮護の神として崇敬され、鉱夫が入・出坑の際には必ず坑口にまつられた大神に拝礼することを常とした。
 現神社の一帯は住友関係会社社員の作務によって完成されたものである。
 現在も、新年祭そして銅山の稼行許可の日である5月9日の春季例大祭が、在新居浜住友各社の手で執り行われている。

 

 大山積神社由来
 
 御鎮座地
  本録 新居浜市角野新田町参丁目弐八弐弐番地の壱参
  奥の宮社  生子山山頂(標高百五十米)
 
 御祭神
  大山積神
  倉稲魂命
 
 御由緒
 元禄四年(西暦1691年)六月住友家により別子銅山開業の際、鎮護の神として大三島大山祇神社の御分霊を別子山村足谷の山方、縁起の端に奉祠し、明治二十六年別子山村足谷の目出度町に移転奉遷した。
 
 その後別子銅山の採鉱が深部におよび採鉱の中心が別子山村から東平、端出場と移転したことに伴い、昭和二年十月新居浜市山根町内宮神社の仮遷座を行い、昭和三年五月一日現社地に正遷座祭を斉行した。
 
 そもそも大神は別子銅山鎮護の神をして、全従業員の氏神として宗敬され鉱夫入坑の際には必ず坑口に奉祠せる大神を拝礼して入坑するを常とした。また、住友諸事業の発展に伴い新居浜における各事業の守護神として新居浜市磯浦町に鎮座されていた大神も昭和四年当社に遷され、現在も、住友企業の隆盛と社員の安全の守護神として宗敬せられている。
 神域は、住友企業社員の勤労奉仕(作務)によって完成されたものであり、毎年元旦に新年祭並びに別子銅山の鉱石を奉献する大ノ祭りが行われ、また五月の春季例大祭には境内相撲場において住友各社社員による奉納相撲大会が開催されていた。
 現在も年初の新年祭および5月9日の春季例大祭が在新居浜住友企業により変わることなく執り行われている
 
 昭和六十三年五月一日
 
 

 
 
     
 大山積神社では、かつて、大ノ(ばく)式という行事が行われていた。
 大ノとは、別子銅山で、その前年採掘されて鉱石のうち最も高品位の鉱石を選んで一定の大きさに整えてしめ縄で飾りつけたものである。

 大ノ式とは、元旦の朝、重さ約250kgにもなる大ノを鉱夫らが担ぎ大山積神社に奉納して大地の恵みに感謝し、事業の繁栄と安全を祈願したものである。 

 
 大ノはその後精錬部門におくられ、溶ノ式の後、その年最初の鉱石として溶鉱炉に装入された。
 大ノを小さくしたものは、小ノと称し、旧年中に住友家に届けられ、新年の床飾りとして使用された。

  
 

 大ノの奉納の道中や神事の際には江戸木やり節が起源とされる「大ノの歌」が歌われていた。

 昭和48年(1973)に別子銅山が閉山して大ノ式も途絶えていたが、別子銅山の退職者でつくる「別子銅山親友会」では、1990年の銅山開坑300年を機に、住友各社の新年祭式の一部として「大ノの歌」の奉納を復活させ、伝統を継承している。




 別子銅山記念館の入口に、大ノが展示されている。

 
 その解説板より
 

 大ノ

 古式により 毎年元旦に銅山守護神である大山積神社に奉献された大いなる鉱石
 (昭和48年度に奉献した最後のもので、鉱石の重さは約300キログラムある)
 
 別子銅山大ノの歌

 いまの旦那さんよ末代御座りゃ
 ノにゃ歩くが増す人が増す
 
 飲めよ大黒歌えよ戎子
 間で酌取れ福の神
 
 明けて目出度い始まる歳は
 金場大ノ富士の山
 
 歳の初めに始まる月は
 ノの買いぞめ蔵開き
 
 旦那さんの盃山留めるじゅうへ
 貰て戴く大ノの繪

大ノ歌の由来    別子山村郷土誌より(明治45年記)
 
 当鉱山に「ノ祭」と称する古式あり 新年一日 坑夫等は大なる鉱石を曳きて山神社に至り
 この鉱石は四日に至り (製錬課所属の鎔鉱夫等によりて引き取らる)
 その小片を飾藁に包みて 坑夫頭之を携えて鉱業所(式場)に至り 鉱山主代理者たる支配人に呈す
  
 この歌はこの式場に於いてのみ歌はるるものにして 一人音頭をとなへ 坑夫頭の全員之に和す
 歌詞は百年以上の昔に於いて作られたりと聞けども 作者起源等詳ならず 
 節廻しは もと大阪に於いて 天神社建築用材をひくとき歌はれたる キヤリンブシの伝はりたるなりとの説あり