正岡子規の歌碑
|
別子銅山記念館の入口ロビーには、大山積神社に奉納された大ノが展示されている。 |
大ノ 古式により 毎年元旦に銅山守護神である大山積神社に奉献された大いなる鉱石 (昭和48年度に奉献した最後のもので、鉱石の重さは約300キログラムある) 別子銅山大ノの歌
大ノ歌の由来 別子山村郷土誌より(明治45年記) 当鉱山に「ノ祭」と称する古式あり 新年一日 坑夫等は大なる鉱石を曳きて山神社に至り この鉱石は四日に至り (製錬課所属の鎔鉱夫等によりて引き取らる) その小片を飾藁に包みて 坑夫頭之を携えて鉱業所(式場)に至り 鉱山主代理者たる支配人に呈す この歌はこの式場に於いてのみ歌はるるものにして 一人音頭をとなへ 坑夫頭の全員之に和す 歌詞は百年以上の昔に於いて作られたりと聞けども 作者起源等詳ならず 節廻しは もと大阪に於いて 天神社建築用材をひくとき歌はれたる キヤリブシの伝はりたるなりとの説あり |
泉屋コーナー |
近世初期に銅山師・銅商として台頭した泉屋(住友)の歴史を、江戸時代の絵図、古文書や、明治年代の古文書、図巻、器物、諸記念品等で紹介しています。
棹銅、丁銅、丸銅 江戸時代、銅山の荒銅(粗銅)を大阪の銅吹所(精錬所)で精銅にし、長崎貿易用と、国内販売用のものをつくりました。 棹銅 貿易用で御用銅ともいいました。 丁銅・丸銅 国内販売用で地売銅とも呼ばれました。 |
歴史コーナー |
元禄3年大露頭発見、翌4年開坑より閉山までの別子銅山経営の推移を、古文書、絵図、図禄図表、器物模型等で、特に明治以降は写真類を豊富に使用して紹介しています。
また室の中央に大露頭、筏津鉱床鉱脈全巾鉱石や別子銅山坑道模型、住友グループ各社発展略図、明治中期の別子銅山模型があります。 |
地質・鉱床コーナー |
別子銅山や周辺の地質・鉱床のあらまし、計測機材、鉱石標本等を紹介しています。 |
生活風俗コーナー |
江戸末期より昭和年代に至る、山内作業・風俗や坑内用諸道具類、諸行事、服装、諸施設等を紹介しています。
銅山札 |
技術コーナー |
採鉱法・支柱法・大立坑模型や、明治より昭和に至る照明器具、採鉱用小道具、鉄道用品、鉱山救護隊用品、さく岩機他を紹介しています。
照明器具 螺灯明治28年(1895)頃まで使用、栄螺の殻に鯨油を入れ、灯芯に点火して坑内作業の明かりとしました。 |
別子銅山の歌
み祖より継ぎ来てここに二百八十年 いま閉山の悲しきに逢ふ 菩提寺に礼拝恭敬浄まりし 身もて入りゆく別子の山に 含銅量豊かなりにし此のあたり 鴨嘴の音ひびくかと思う 最下底三十二番レベルの灯 遙かの底に見えずなりたり 鉱石を負ひこの山阪を歩めりし 負夫を偲び今日の山ゆく 音もなく薄れたつ坑口に 園居して聞く大ノの唄 相抱き喜びしとふ歓喜坑道 羊歯青きさへ懐かしきもの 峯越しの路の曲がりに目のあたり 露頭の焼けの赤き層みゆ 移し植えし落葉松ここに黄葉して かく美はしき樹林と成りぬ 峯の方より雨ぐも隠れゆく山を 一たび仰ぎさびしむ吾れは この銅山を神として仰ぎ幾代かも 掘りつぎて来しことの畏こさ この山に幾代を承けて蒙りし 恩を思えば假初ならず 新しき工場は成りぬ 煙さへ 見えぬ清しきユニットとして 昭和四十七年十二月 住友吉左衛門 友成 記 |