東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内山根公園

山根公園

 マイントピア別子に向かう道の下手にある運動公園。
 グラウンド、テニスコート、体育館、屋内プールなどの設備の他、子供のための遊具広場などがある。
 
 また、春の桜の季節には、花見の名所の一つに挙げられる。
 
 
 当地は、元禄4年の別子銅山開坑以来繁栄した鉱山社宅跡地を昭和天皇陛下御在位六十年記念健康運動公園の指定をいただき、市民のスポーツと健康づくりの拠点となるように整備いたしました。
 モニュメントは銅を基調にに豊かで潤いのある郷土の発展をめざし順風満帆、風を受け未来に向かって漕ぎ出すエネルギーを「動」の帆、恵まれた自然と共生しながらまちづくりを行う和を「静」の錨とし、また300年に及ぶ歴史と伝統を誇る太鼓台の幕、龍と鷲を象徴としてイメージしたものです。
 平成6年3月吉日

 新 居 浜 市 
     
モニュメント制作 
  新居浜機械産業共同組合
  
 
制作協力社
 住友金属鉱山株式会社別子事業所 
 住友バイエルウレタン株式会社 
体育館 屋内プール
遊具広場 山根公園の桜
  
 山根グラウンドは、昭和2年(1927)、別子銅山の最高責任者に鷲尾勘解治が就任して、その指揮の下で建設された。
 この建設には、住友各企業社員の作務により行われ、昭和3年(1928)完成した。
 収容人員6万人のグランドで、石積みの階段状の観客席は、現在も残っている。
 
 新居浜の太鼓祭りでは、ここのグラウンドで17台程の太鼓台が結集して「かきくらべ」が開催される。

 山根公園の敷地は、かつては別子銅山で働く人の川口新田社宅が有った。  
 
 昭和25年(1950)10月、その社宅で爆発事件が発生した。
 さらに床下より妻子のミイラ化死体が発見され、一大事件となった。
 
 その事件を題材にして映画が撮られた。緒方拳主演の「薄化粧」という映画で、新居浜でもロケが行われたそうだ。

 


 2006年、市内の8箇所に産業遺産説明板が設けられたが、体育館前広場の緑地に「山根グラウンド(川口新田グラウンド)」の説明が設置されている。


 
昭和初期の親友会運動会

山根グラウンド(川口新田グラウンド)
 
 昭和3年(1928)11月完成。別子銅山従業員の福利厚生を目的に造られたもので、全周400mのトラックをもつ。
 作業は、前年2月から、鉱山の最高責任者、鷲尾勘解冶の指導で、「作務」という休日勤労奉仕(今日のボランティア活動)により行われた。
 石積の観客席は、20数段に及ぶ階段状で、生子山(通称煙突山)の斜面の沿って造られており、収容能力は3万人を上るといわれる。同じ石積の観覧席は、国領川対岸にある角野小学校グラウンドにも見ることができる。
 毎年11月3日には、住友従業員の親睦を目的とした親友会大会(運動会)が、このグラウンドを会場として盛大に行われた。
 なお、グランドから大山積神社、別子銅山記念館付近にかけての場所は、明治21年(1888)から明治28年(1895)までの間、山根精錬所が置かれていた。生子山の上に残る煙突は、その名残である。
 やまねグラウンド(かわぐちしんでんグラウンド)
小学生用解説

 1928年11月に完成。別子銅山で働く人の健康を守ることなどを目的につくられた。一周400mのトラックがとれる。石を積んでつくられた観客席は、20数段に及ぶ階段状で3万人以上の人がはいることができる。
新居浜市
 


 2007年には、山根公園入口の日本庭園の所に「新田自彊舎跡」の説明が設置された。


 
昭和2年の新田自彊舎(別子銅山記念館蔵)

新田自彊舎跡
 
 自彊舎は、明治45年(1912)に旧別子の風呂屋谷で、青年坑夫の教育が必要であると感じた、後の別子鉱業所支配人・鷲尾勘解治の私塾として開かれたものである。「自彊」とは、「自ら努め励むこと。」の意である。
 大正5年に採鉱本部が東延から東平へ移転したことに伴い、自彊舎も東平の呉木に移転した。その後、鷲尾が病気で休職したために一時閉鎖され、さらに新居浜勤務になったために廃止されていた。
 大正15年(1926)11月、別子大争議の後、別子鉱業所経営の施設として自彊舎が再興され、川口新田に本塾が、東平と四阪島に支塾が設置され、運営は労働課があたることになった。昭和4年(1929)に、別子鉱業所講習所を廃止して自彊舎内に夜間の実業自習学校が設立された。小学校卒業者には中等程度の学科を課し、これを終えた者には専門教育が施された。自彊舎に入って修行した人や実業自習学校で学んだ人から多くの中堅幹部が輩出された。
 しんでんじきょうしゃあと
小学生用解説

 鉱山で働く若者の教育のために鷲尾勘解治が旧別子に開いた塾が始まり。
 1926年に川口新田につくられ、1929年に夜間の仕事を学ぶ学校もつくられた。
新居浜市
 


 2007年には、温水プール前に「川口新田倶楽部跡」の説明が設置された。


 
昭和初期の川口新田倶楽部(別子銅山記念館蔵)

川口新田倶楽部跡
 
 自彊舎、大山積神社、相撲場、大運動場、販売所、浴場などの文化施設の揃った川口新田社宅を建設するとの住友別子鉱山常務・鷲尾勘解治の構想のもとに、川口新田倶楽部は、昭和5年(1930)1月、別子銅山に働く社員とその家族のための集会や社交利用の福利厚生施設として建設された。
 木造2階建の外観は、左右対称で板張りペンキ塗り、上げ下げ窓のある洋風であったが、内部は外観から受ける印象とは異なり和風のインテリアで統一されていた。
 施設としては、1階には大浴場(東側が女湯、西側が男湯)、2階には床の間付きの40畳の娯楽室(囲碁・将棋、図書コーナー)と17.5畳の理髪室があり、社員の一日の疲れをいやす場として大いに利用された。建設当時の入浴料金は、大人4銭、小人2銭の格安料金で好評であった。入場者数も日に1,500人と賑わった。
 福利厚生施設としての倶楽部は、筏津(筏津倶楽部)、東平(東平倶楽部)、端出場(鹿森倶楽部)、立川(立川倶楽部)、新居浜(住友倶楽部)、四阪島(美ノ上倶楽部・中央倶楽部)にもそれぞれ建設された。
 
 かわぐちしんでんくらぶあと
小学生用解説

 1930年に住友別子鉱山の鷲尾勘解治が計画してつくった、別子銅山で働く社員とその家族のための施設。1階には大浴場、2階には娯楽室と理髪室があった。このような倶楽部は、他の地区にもつくられた。
新居浜市
 

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