東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内旧別子旧別子(2)


旧別子(2)


ダイヤモンド水


旧別子案内 No 27
ダイヤモンド水

 
 金鍋鉱床坑外ボーリング(試錐)探査 1号孔のあとです。 
 金鍋鉱床の露頭(鉱石が地表に現れている部分)は この後の山の頂上近い標高1300くらいの ところにあります。
 この鉱石を確認するため昭和25年9月から4ヶ月間傾斜角度45度で ボーリングによる探査を行いました。 途中約80mの深さのところで地下水脈に出合い以来その水が絶えることなく自噴し続けています。硬い岩盤に孔をあけるため ロッド(回転駆動軸)の先に小さなダイヤモンドを ちりばめたビットを使っていましたが探査が終わったあと これを回収することができなくなり孔底に残ったままになっていることから誰言うことなくこの自噴水を「ダイヤモンド水」と よぶようになりました。
 
 (参考)
 坑外ボーリング2号孔(昭和26年8月から4ヶ月間実施)はこの少し上流の奥窯谷沿い標高1160mくらいのところです。
 また標高800mくらいの坑内からも14本のボーリング探査を試みました。
 
 
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高橋精錬所跡

 
 ダイヤモンド水の近くには石垣が認められる。
 この石垣は、昔、高橋精錬所があったところという。
 
 高橋精錬所は、旧別子側の本格的精錬所で、ここで精錬された粗銅は、第一通洞、上部鉄道、索道、下部鉄道を通じて惣開精錬所へ送られ精製されていた。
 当初、精錬施設の新居浜側移転に伴い、規模が縮小される予定であったが、新居浜側の山根精錬所、新居浜精錬所の煙害問題発生により、四阪島精錬所完成まで規模が拡張された。しかし、明治32年、台風による別子大水害の発生により施設は殆どが大破し、精錬機能を失う結果となった。
 
 現在、ダイヤモンド水の対岸から黒橋までの辺りまで見られる石垣は、高橋精錬所の洋式溶鉱炉、沈殿池、倉庫などの跡とのこと。
  

旧別子案内 No 6
高橋精錬所跡

 
 ダイヤモンド水の対岸より黒橋の辺りまで続いている石垣は、明治12年に建てられた洋式溶鉱炉、製錬炉、沈殿池、収銅工場や倉庫等の跡で、対岸の岩山の上に残る石積みは和式溶鉱炉の跡であり、この辺りの川の上には石造の暗渠が築かれていた。暗渠の一部や川に流れた「からみ」が今も残っている。
 ここ高橋精錬所は、明治期洋式の新鋭精錬所として活躍していたが、明治32年(1899)の台風により被害を受け、その後は一部を除き製錬作業は新居浜惣開に移された。
 
 

高橋精錬所と沈殿工場

 
 対岸の高い石垣は高橋精錬所跡である。
 この石垣は更に300m上流まで続いているが、この対岸には明治20年代になって建設された洋式溶鉱炉(左)と沈殿工場(正面)があった。
 明治28年から政府は環境問題に規制を設け、製錬の際に出る鉱滓を直接川に流さないことにした。そこで精錬所前には暗渠を築いて流水を伏流させ、その上に鉱滓を捨てていたので、一時前の谷は鉱滓堆積広場になっていた。
 それが、明治32年(1899)の風水害で堆積広場は流され、暗渠も大半が潰れて元の谷川に戻った。
 ここに残る暗渠は当時の様子をかすかに伝えている。
 正面には沈殿工場といって、銅の品質が低い鉱石を砕いて粉末にし、水を使って処理する湿式収銅所があったが、明治32年の水害以降その設備が小足谷に移ってからは、目出度町の近くにあった住友病院が一時移転していた。
 
 ※鉱滓:鉱石を製錬する際に生ずる不用物
 
 
 この付近の山道には、銅の製錬工程で発生した「からみ」(FeO・SiO2)が多数落ちている。
山道で拾った「からみ」

トラス橋の焼鉱窯群

 
 この辺りの地名はトラスバシという。
 正面にせり出している熔岩の様なものは製錬をして銅を採った残りの酸化鉄である。これをカラミという。カラミがあるということは、ここにも精錬所があったという何よりの証である。
 
 写真では無数の焼窯が立ち並んでいるが、その前は溶鉱炉があったことになる。
 このように別子銅山では古いものが新しいものへと、しばしば入れ替わっていた。
 焼鉱の工程は、焼窯という石囲いの中に多量の薪とと生の鉱石を交互に積み重ねて燃やすと1ヶ月ぐらいで硫黄が燃えて発散し、後に銅と鉄からなる焼鉱が残る。
 続いてこれを荒吹炉に入れて、更に次の間吹炉に入れて淘汰すると、銅の含有率が90%ほどの粗銅となる。
 右の岩山の上に高く積まれているのは焼鉱用の薪である。
 
  
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パイプ橋

   ダイヤモンド水を過ぎた所で、道が二手に分かれる。
 
 真っ直ぐ進むと、旧大山積神社などがある目出度町方面、この橋を渡ると歓喜坑方面につながる。
 
 この橋は廃材のパイプを利用して作られた物で、パイプ橋と呼ばれている。
 
 
 

旧別子案内 No 7
 
奥窯谷入口

 
 この谷を奥窯谷とよび足谷川の支流である。
 この谷を200m程登って右の稜線に立っている鉄塔を越えると、旧鉱山街両見谷に入り目出度町から銅山越に行くことができる。
 また、この谷を遡行すると金鍋坑を経て薪炭輸送の中継地大阪屋敷に達する。
 この谷の入口には、大きな木炭倉庫があり、谷の向こ側には裏門という部落もあった。 
 南口から銅山越にでるには、本流を渡ってガレ場を登ると、そこが南口である。
 
 

  
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第一通洞南口

 パイプ橋を渡って山道を登ると、さらに道が二手に分かれる。
 
 左に進むと歓喜坑を通って銅山峰に続く。
 ここで、右に進むと、第一通洞の南口に出る。

第一通洞南口(標高1,110m)

 
 この附近一帯は通称ミナミグチと言う。別子銅山の近代化はこの附近から始まった。
 明治9年には嶺北角石原からの通洞が代々坑に貫通し、ここに銅山峰の北と南を結ぶ1.020mにおよぶ水平坑道が初めて出現した。以後、大正5年(1916)に銅山の本部が東平へ移るまでの30年間、第一通洞南口が銅山の心臓部としての役割を果たした。
 また、明治26年には第一通洞北口まで鉄道が敷かれたので、運輸面の要ともなり、はじめて運輸課の誕生をみた。
 以来次々と採鉱課、会計課、調度課が軒を連ねるようになり、近代化の拠点東延時代の一翼を担っていた。
 往時はこの谷にトラス橋が架かり高橋精錬所まで水平軌道が延び、鉱石と製錬された粗銅を運んでいた。
 
 


旧別子案内 No 8
 
第一通洞南口(代々坑)

 
 ここより400m下の高橋の精錬所で得られた粗銅は、ここからトンネルを抜けて北口の角石原に運ばれた。
 この南口の前には勘場(会計)や採鉱課運輸分課の事務所が並び、また住友銀行の出張所もおかれていた。
 南口の前から東延の入口までの谷は、暗渠となっており、明治中期の嶺南側における輸送の中心地として栄えていた。
 眼の前の沢を東延谷とよび上流200mの地点、石垣の上に東延斜坑の跡が残っている。
  尚、この代々坑は享保3年(1718)より着工した水抜きとして最初の大規模な坑である。
 
 
  
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東延斜坑

 第一通洞南口から見えるこの谷の奥に東延斜坑があるという。
 
 東延斜坑は、フランスの鉱山技師ルイ・ラロックの目論見書で計画された斜坑で、鉱石の運搬や排水路として使用されていたという。
 現地には斜坑の口が開いているとのことであるが、時間が無く、ここまでで引き返した。

旧別子案内 No 9
 
東延

 
 この谷の上部石垣の上に東延斜坑があり、この辺りには、選鉱場があった。
 東延斜坑は明治7年(1894)住友家の招いたフランスの鉱山技師ルイ・ラロックの計画に基づき、明治9年に着工 同28年(1895)に完成を見たもので北東から南西に49度の傾斜で526m掘り下げられ八番坑道迄達している。
 
 この斜坑は、各坑道間の連絡や鉱石の運搬及び排水路と兼ね、上部坑の開発に果たした功績は大きく、完成後、採鉱量は飛躍的に増大した。斜坑には蒸気機関駆動の巻揚機やボイラーがあり、巻揚機は昭和5年(1930)まで使用されていた。
 
 

旧別子案内 No 10
東延斜坑跡

 
 仏人、鉱山技師ルイ・ラロックの進言により、各水平坑道を縦に結ぶ運搬坑道として明治9年(1876)7月に着工、同28年(1895)1月に完成した。
 49度の傾斜で北より東35度30分の方向に526M掘り下げて八番坑道(第3通洞)に達している。
 
 この斜坑の完成により坑底の坑水は小足谷に排出され、各坑道からの鉱石は蒸気駆動の巻揚機で斜坑から搬出されて、別子の採鉱量は飛躍的に増大し、東延は銅山の中心地帯となり、第一通洞南口から下の高橋にかけて選鉱場や多くの焼鉱炉が並んでいた。
 
 
  
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