東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内口屋跡


口屋跡


口屋跡

    新居浜の昭和通り沿いの広島銀行脇の道を北に入ると、口屋跡記念公民館がある。
 公民館の脇に大きな松の木があり、これが「口屋あかがねの松」で、口屋がここにあったことを示すものである。
 
 元禄4年(1691)住友家が別子銅山を開坑した当初の運搬路は別子から宇摩郡天満村の浜に出るコースであったが、元禄15年(1702)銅山越から角石原に出て 立川を通り新居浜浦に至る輸送路(第二次泉屋道)が完成し浜宿として「口屋」が設けられた。
  銅の道参照
 
 「口屋」とは、物資供給の基地であり、別子銅山から運ばれた粗銅は大阪の銅吹所へ船で送り出され、銅山で必要な食糧や資材が銅山に送られた。
 口屋には、代官所の役人、住友家の手代が常駐し、船の積み荷の検査、牛馬による銅山輸送等の業務を担当していた。
 その後、口屋は住友分店と改称され、明治23年(1890)に惣開に分店が移転するまで別子銅山の重要な拠点であった。

 

口屋跡由良記

 
 口屋の由来は、元禄4年(1691)住友家が別子銅山を開坑し、当初 粗銅を 土居町天満から大阪に運んでいたが、元禄15年(1702)銅山越を経て、立 川路を新設し、新居浜浦に口屋を設けたことに始まる
 口屋は 別子銅山から運んできた粗銅を 船で大阪に運んだり 銅山で働 く人やその家族の食糧や日用品その他の資材の搬入、往復する船や仲持 、牛馬の発着事務を扱い明治22年(1889)惣開に分店が移転するまでの18 8年間 別子銅山の重要な拠点として 大きな役割 を果たしてきた。
 その後、口屋跡は、小学校、町役場、市役所、図書館、公民館へと移り今 日に至る。
 昭和24年(1949)に史跡として 愛媛県の指定を受け、往時の新居浜の産業 、経済、政治、文化を知る老松静かに生きつづけている
   
新居浜市教育委員会

   
 
 裏面

 別子銅山開坑300年
 口屋跡記念公民館開設20周年 記念
 
 「幕末の銅物語」として、立川(中宿)から口屋(浜宿)へ向う 仲持1 20名の行列と 幕末の口屋を再現する
 老松の名を公募し「口屋あかがねの松」 と命名する。

平成2年11月3日

記念事業実行委員会
 

【関連URL】
       街道物語
 口屋の図(別子銅山図巻
  
 昔はこの松の木に牛をつないでいたそうだ。
 
 遠くに見える島は御代島で今は埋め立てられて住友化学の工場敷地の一部になっている。
 
 
 1985年 住友商事株式会社広報室 編
 住友商事株式会社 発行
 「住友の風土」より
 口屋跡記念公民館玄関脇の銅のレリーフ。
  
  牛車と口屋の松が描かれている。

 住友資料館所蔵の明治14年の写真と同じ図柄のようだ。


 2008年、市内の10箇所に産業遺産説明板が設けられ、口屋跡記念公民館の前に本町通りの説明板が設置されている。

 
昭和10年頃の本町通り

本町通り
 
 元禄15年(1702)に、別子銅山の新居浜口屋が現在の本町通りに面して設けられ、新居浜浦は次第に発展してきた。この通りには雑貨屋、呉服屋、料理屋、旅館などが立ち並び東新地方第一の繁華街として栄えてきた。明治22年(1889)に惣開に分店が移転後、新居浜口屋跡は小学校、町役場、市役所、図書館などになった歴史を見ると、本町通りがメインストリートであったことが伺える。
 また、明治43年(1911)には、新居浜町内の各社を合祀して新居神社を本町通りに面して設けたが、昭和25年(1950)には大神宮を合わせ一宮神社境内に移した。
 昭和10年頃の本町通りには、東は新居浜口屋跡から西は新居神社の手前まで日除けのテントが張られていた。ひもを引くと自由に開閉できるようになっていた。今でいうアーケードである。しかし、昭和6年(1931)に昭和通りが新設されてから、順次商店が昭和通りに移っていった。

 ほんまちどおり
小学生用解説

 1702年年に、新居浜口屋(今の口屋跡記念公民館)という船つき場(港)が通りの近くにできた。その後しだいに旅館や商店が多く立ち並び、にぎやかな本町商店街ができた。 1931年に、昭和通りができ、商店が昭和通りにうつっていった。
新居浜市
 


 2008年、市内の10箇所に産業遺産説明板が設けられ、「銅夢にいはま」の北側、「いこいの森」に昭和通りの説明板が設置されている。

 
昭和6年の昭和通り開通祝賀行列

昭和通り
 
 昭和2年(1927)10月、住友別子鉱山の最高責任者に就任した鷲尾勘解治は、「もう鉱山も長くはない。鉱山がなくなっても生きる町を作らなくてはならない。まず必要なのは交通機関。港と道路が設備されなければならない。これが決まると、鉄道の停車場を設けるのも、工場、事務所、変電所、陸上場、倉庫などの位置を決めるのも計画的に行うことができる。」と都市計画の必要性を説いた。最初に港から金子村を通って新居浜駅までの道路の敷設を計画したが、土地所有者の反対にあい、現在の昭和橋から新高橋までの道路を建設することにした。 
 当時新居浜町(現新居浜市)でも、町の発展のためには道路の整備が急務と考えており、この道路敷設は町の構想とも合致した。道路敷地の買収は新居浜町があたり、道路の建設費用は、全額住友別子鉱山が負担し、一切の工事を無償で請け負った。 道路の幅は、当初八間(14.4m)で計画されていたが、当時としては広すぎるといった意見が多く、六間(10.8m)に狭められた。
 昭和通りは、昭和6年6月に完成し、昭和期につくられた県道(西条新居浜線)なので、昭和通りと呼ばれた。今日まで新居浜市の幹線道路として本市の発展に大きく寄与している。

 しょうわどおり
小学生用解説

 住友別子鉱山の責任者となった鷲尾勘解治が、「これからの時代は道路や港が大切である。」との考えで、1931年につくった道路。 昭和の時代にできたので昭和通りと名前がついた。
新居浜市
 

   
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