東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内天正の陣

天正の陣


  
 
 滝の宮公園には、「天正之陣滝の宮口」の碑が建てられている。
 天正の陣とは、天正13(1585)年、豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景の四国討伐により金子山に城を構えていた金子元宅が滅ぼされた戦いである。
 
 金子山の城ばかりでなく、現在の新居浜や西条市内の城や神社仏閣も天正の陣でことごとく焼けていた。  
天正の陣で焼失した神社・仏閣
新居浜市 川東地区 黒島
浮島
明正寺
八旛神社
新居浜市 川西地区 新須賀
八雲町
八雲町
繁本町
一宮町
円福寺
宗像神社
宗像寺
萬願寺(廃寺)
一宮神社
新居浜市 上部地区 角野山根町
角野山根町
中萩町中村
中萩町萩生
大生院
光明寺
瑞應寺
内宮神社
真光寺
萩生寺
正法寺
光明寺
西条市 喜田川
大町
坂元
禎祥寺
徳常寺
吉祥寺

 第二次世界大戦では、新居浜は大きな空襲を受けていなかった。その理由は、工業都市である新居浜にはアメリカの捕虜が働いていて、それを米軍も知っていて空襲しなかったという。
 天正の陣は、歴史的にも新居浜が受けた最大の被害ということになるのだろう。


時代背景
 本能寺の変の後の豊臣秀吉の年表は以下のようになる。
 天正10(1582)年    6 本能寺の変 山崎の戦 
 天正11(1583)年    4 賤ヶ岳の戦 6 大阪城築城
 天正12 (1584)年   4 小牧・長久手の戦
 天正13 (1585)年   6 四国平定 関白となる
 天正14 (1586)年  12 太政大臣となり豊臣姓を賜る
 天正15 (1587)年   9 九州平定 聚楽第完成
 天正16 (1588)年   7 刀狩り令
 天正18 (1590)年   7 小田原平定 全国統一
 文禄元 (1592)年   3 文禄の役(〜1593)
 慶長2 (1597)年    1 慶長の役(〜1598)
 慶長3 (1598)年    8 没

 天正13年に「四国平定」となっているが、この中で豊臣軍と玉砕するまで戦ったのは新居郡での天正の陣のみで、その後の四国平定では、豊臣軍に降参するか、逃亡するかで、戦にはならなかったという。
 
 別子銅山の発見はさらに100年程後の元禄3年(1690)であるが、この天正13年は住友の家祖である住友政友が越前の丸岡で生まれた年でもある。



当時の新居浜地区の支配体制 

 当時の新居浜付近では、以下のような豪族が城を構えていた。
川東 高橋丹後守大宅朝臣光国
藤田山城守芳雄
宇高不留土居城 
岡崎城
八旛神社の南西 
郷山
川西 小野上野守頼元
要害伊賀の守
野々下右衛門勝正
塩崎播磨守通兼
金子備後守元宅
田所城
要害城
名護城(名古城)
王子砦  
金子城 
田所
泉川
磯浦の住友重機アパート付近
惣開小学校王子が丘
金子山 
御代島 加藤民部正 御代島城  御代島(住友化学の工場内)
上部 鴻上山城守八郎
松木三河守安村 
松木新之亟
福田安芸守
伊保城
生子山城
麓中野城 
高尾城
船木
生子山(煙突山) 
中野山
中萩
西条 石川氏
高橋美濃守種茂(高橋光国の弟)
高峠城
氷見 高尾城 
市倉ファーム近く
西条の西部 氷見 

 
 当時の宇摩、新居 二郡の総支配者は高峠城の石川氏であったが、石川氏をはじめとした諸城主は土佐の長曽我部氏に帰服し、土佐に人質を送っていた。
 石川氏については、天正12年に石川備中守通清が病死、さらに人質として土佐に送られていた石川備中守勝重も病死して8歳の虎竹丸が石川氏の後継者となった。
 虎竹丸の実際上の後見役が金子備後守元宅であり、当時の宇摩、新居 二郡をとりまとめていた。
 
 
 天正の陣 
 
 天正13年7月、毛利輝元、小早川隆景等は豊臣秀吉の命を受け四国討伐の軍を進め、新居浜川東の宇高、沢津の浜に上陸し、高橋氏の宇高不留土居城を攻め、続いて藤田山城守義雄の守る岡崎城(郷山)を攻略し、金子城に迫り、元宅の留守を守る弟の対馬守元春を攻めて陥落せしめた。
 
 金子城主金子元宅は、高峠城に入り、小早川隆景軍を迎え撃つべく、氷見の高尾城に将士を集めて戦闘準備を進めた。
 
 小早川隆景は天正13年7月14日、大軍を進めて氷見高尾城を包囲した。
 金子元宅は、7月17日に自ら城に火を放って城外に討って出て、橘の野々市原に進み出て奮戦し、討死した。
 
   

天正の陣で討死した主な武将

 
 金子城主  金子備後守元宅
 宇高不留土居城主  高橋丹後守
 角野生子山城主  松木三河守安村
 麓中野城  松木新之亟
 岡崎城主  藤田山城守
 御代島城主  加藤民部正
 田所城主  小野上野守頼元
 高尾城主  福田安芸守
 氷見高尾城主  高橋美濃守種茂
 伊保城主  鴻上山城守八郎
 船形横山城主  近藤長門守
 渋柿城主  薦田市之亟
 狭間城主  徳永修理助
 畑野中尾城  薦田四郎兵衛義清
 入野城主  横尾山城守
 野津子城主  工藤兵部
  江渕城主  塩見紀伊守
   宇摩郡野田新九郎
   藤代三郎太夫勝重
   塩出善五郎
   真鍋弥十郎
   矢野久之充
   菅善兵衛
   楢之木土居屋敷丹民部
   野田右京之助秀定
   岸源五郎
   今井八郎兵衛
   難波江藤太夫
   越智美濃守
   中尾筑後守
   久門甚九郎
   鈴木能登守
   近藤三郎兵衛
   真鍋越後守
   大西平内
   白石若狭守
   仙波彦十郎
   渡辺九郎
   大立六郎兵衛
   任瑞法師
   徳永甚九郎
   東条四郎五郎
   藤枝四郎重道
 
 西条の野々市原には、天正の陣で討死した武将の首を葬った千人塚が設けられている。
 また、千人塚の横には、同じく天正の陣で討死した生子山城主松木三河守安村公之碑も建てられている。
 生子山の北、角野新田にある城主神社では松木三河守が祀られている。

 政枝町にある青木神社も、天正の陣で討死した武将を祀ったものである。
 
 金子備後守元宅の墓は、慈眼寺境内にある。
 金子山頂上から遍路道を少し降りたところに金子備後守元宅の供養塔が設けられている。

此の塔は金子城主備後守元宅公供養の為城代家老伊藤嘉右衛門家定の裔七代目嘉右衛門が天保五年二百五十回忌に建立し其の後百五十年を経る今日四百回忌に伊藤家一門末裔の有志に依り土台を設立修復す
昭和六十年五月吉日
 
新居浜のむかしばなし(平成元年2月「新居浜のむかしばなし」編集委員会編 新居浜市教育委員会 発行)でも、天正の陣にまつわる話が伝えられている。
 
   東田の「猪の池」
   チヌの池の話
   カネ姫を助けたイノシシの御恩返しの話
   山上馬を洗うの奇計
   金子城に残る八つの銭瓶
 
 

 
東田の「猪の池」

 天正十三年(1585)、豊臣秀吉の命をうけた小早川隆景は、今治付近に上陸し西条市の現在の高峠・高尾城を攻め、七月十七日に西条市野々市原の決戦で、新居・宇摩の武将がほとんど戦死して、秀吉の四国征伐の勝利が明らかになった。その後小早川勢が東部の新居・宇摩に残る砦を攻め壊滅作戦の行動にでた。
 二日間、下島山で休息した一隊と、海路宇高海岸に上陸した一隊は、一方は金子山砦を攻略して生子山砦の攻略をはじめた。上陸隊は垣生八幡神社の南西にあった富留土居砦を攻略し郷山の岡崎砦攻略にかかったといわれている。
 富留土居砦の高橋丹後守の留守隊と岡崎山の藤田大隅守の軍勢は、要害堅固な生子山城に結集しようと南へ進んだのであるが、東田に入った時、生子山砦を攻略した一隊は上陸隊と合流のためか北進し、東田で敵味方が遭遇し決戦となり、新居勢はほとんど戦死、小早川勢にも多数の死傷者が出たといわれている。
 決戦後は敵・味方のしかばねが東田の地域全般にわたって散乱していたといわれ、勝利の小早川勢が集結して槍や太刀を池で洗ったので、池の水が血で紅になったそうである。
 それからその池の名を「血の池」と呼んでいたが、のちに縁起が悪いということで「猪の池」と名を変えたということである。猪の池は今では埋めたてられてしまっている。
 今でも東田地域のあちらこちらに、当時の戦死者のものと思われる塚石が立っている。 
 この話は、この地方では最後の悲惨な戦いとして語りつがれてきたものである。
 
 

 
チヌの池の話

 金子城のあった時代、城の飲料水として使われていた池です。現在の西の土居町自治会館から南の山麓までの間の、広い池で清水がコンコンと湧き出ておりました。
 この池にまつわるいい伝えがいろいろあります。
 その昔、天正の陣の戦いでは、金子城の守りは固く、小早川軍がいくら攻めても落ちません。ついに小早川から勧降使がやって来ます。そして「あなたたちはこれだけ戦えば、もう武士としての面目は十分立ったと思います。この上戦えばお互いに死者は増えるばかりです。決して悪いようには致しませんから、ここで城を明け渡してください。」といいます。すると兄に代わって金子城を守っていた金子対馬守元春は、「おことばはたいへんありがたいが、私たちは土佐の長曽我部と同盟を結んでいる以上、武士として約束を破ることはできません。最後の一人になるまで戦います。」とキッパリ断り、そして勧降使に、このチヌの池のコイを御馳走して丁重に送り返しました。
 また、この時の戦は旧暦の七月で夏の盛りでした。傷ついた多くの武士たちは、チヌの池まで水を飲みに来て、ついに力尽きて死んで行きました。
 実は、この池は当時はチヌの池とは呼んでいなかったのです。この池のそばで、傷ついた多くの人たちが死に、その血で池の水が真っ赤に染まりました。血で塗られた池、血塗の池と後世に呼ばれるようになったのです。またこの池にはカネ姫の金の櫛が落ちているのだとのいい伝えもあります。
 チヌの池は明治の最初までありましたが、鉄道がつくられる時に埋め立てられました。しかし、直径5メートルぐらいの源泉池が山麓のタケ藪の中に残っておりましたが、太平洋戦争中の農地の開発でついになくなりました。
 
 
 

 
カネ姫を助けたイノシシの御恩返しの話

 春高楼の花の宴、みぐる盃影さして・・・・とあの荒城の月の歌にもあるように、金子城の平和な時代でした。金子備後守を始め家臣一同が山上でお花見をしておりました。
 そして宴もたけなわになった頃、数人の若い者が山の中からイノシシの子を生け捕りにして、備後守の所へ持ってきて「殿、イノシシの子を捕らえてきました。子供ですから肉もやわらこうございます。さっそく料理をいたします」といいますと、居並ぶ家臣たちは、それはよいごちそうだと喜びました。ところが備後守は喜ぶと思いの外、顔を曇らせて「そのようなかわいそうなことはしないでくれ、どうかそのイノシシの子を助けてやってくれ、しかも余は亥年の生まれである。」というのでした。
 そしてイノシシの子をもとの所へ逃してやりに行くのです。ちょうどその時四、五歳であった備後守の長女カネ姫も家来につれられていっしょについて行きました。
 命を助けてくれたイノシシの子は、木立の中に走って行きました。すると数匹の親、兄弟のイノシシが出迎えに来ており、いっしょになり、十歩行ってはあとをふり向き、二〇歩行ってはふり返りながら木立の中に帰って行きました。
 
 時は流れて天正十三年(1585)7月14日、秀吉の四国攻略に対して、土佐の長曽我部と同盟の義理のため、人は一代名は末代と、十倍に余る秀吉軍を相手に戦った金子城もついに落城、当時十六歳になった美しいカネ姫は、家来の守谷一族に守られて、金子山伝いに土佐へ落ちようとします。しかし敵が追いかけて来て、守谷一族も次から次へと斃れます。とうとうカネ姫一人になります、「あれは美しいカネ姫だ、早く捕まえろ」といいながら敵が追いかけて来ます。ああもうだめかと思ったその時、木立の中から数匹のイノシシが牙をむいて、敵におそいかかりました。思いもよらぬ出来事で、敵がとまどうあいだに姫は危機を脱して、ぶじ土佐へ逃げることができました。しかしイノシシたちはついに殺されてしまいました。
 土佐に逃れたカネ姫は、長曽我部氏に優遇され、また山之内家の時代になって、奥女中の取締り役となり、八〇歳の高齢を保ちました。
 またカネ姫が逃げる時、身に着けていた衣装や被っている笠が、木立に引っ掛かって取れなくなりました。それから、後世の人は現在のゴルフ場付近一帯の山を衣笠山と呼ぶようになったとのことです。また、カネ姫を守った守谷一族の御子孫の方たちは現在でも中萩町におり、栄えております。
 
 

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