慈眼寺の歴史は古く、今より約五百八十年の昔、応永十三年(1406年=足利時代)に開かれております。 当時は金子城のあった時代で、場所は山の北側でした。 天正十三年(四百年前=1585年)の秀吉の四国攻略(天正の陣と呼ぶ)により金子城は落城し、その時戦火に遭ってお寺も焼失してしまいました。 口碑によれば当時、金子備後守元宅は東予全軍の指揮をとるため高尾城(西条市氷見)に行き、兄に代わって金子城を守っていた弟の対馬守元春は、落城後戦で亡くなった人達の菩提を弔うため仏門に入り、奥州(福島県平市)の長源寺に行き、卓眼和尚の許で修行を積み、後に故郷の地に帰って生残りの者や戦死した子孫と力を合わせ、この戦で亡くなった将士の菩提を弔うため、金子城の館跡に一寺を建立し、松樹林正法山慈眼寺と呼びました。時は元和年間と伝えられており、また関庵本微和尚は対馬守元春の後身といわれております。当時のお寺は今のような規模ではなく、現在の庫裏は本堂兼住居であり屋根も茅葺きでした。徳川時代の後半になり現在の本堂、玄関、拝殿と次々に建立し、今の様な規模のお寺になりました。 次に宗派は焼失以前は臨済宗でした。現在の慈眼寺は親寺長源寺と同じ曹洞宗です。本山は越前の永平寺と総持寺(横浜市)で、ご本尊は聖観世音菩薩をお祀りしております。 本堂の奥のお位牌堂には、歴代住職および、城主、金子備後守ならびに共に討ち死にをした将士のお位牌がお祀りしてあります。 また本堂の裏には「天正の陣」の戦で亡くなった金子備後守と真鍋六人衆の墓、岡崎城主藤田大隅守の墓等があります。また山の中腹には家老、伊藤嘉右衛門の子孫が建立した供養塔もあります。かくの如く当山慈眼寺は古い歴史と落城にまつわる哀話を秘めた由緒ある古刹であります。 昭和五十九年 記
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境内の庭は綺麗に整備されている。 | 裏には、さらに大きな庭園がある。 |
中央は金子備後守元宅の墓 他の六墓は真鍋六人衆の墓 真鍋佐渡守家綱 真鍋左京佐兼孝 真鍋勘解由行綱 真鍋越後助政綱 真鍋孫太郎兼綱(真鍋流の弓の名人) 真鍋孫九郎亮綱 全員高尾城(西条市氷見)の戦で討死をしました。 お位牌は慈眼寺に祀られております。 真鍋家は金子備後守の母親の出里であります。 |
また、金子山四国八十八か所の遍路道の途中に金子元宅の供養のために建てられた法華塔が設けられている。
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