東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内瑞應寺


瑞應寺



   
 瑞應寺は、釈迦如来像を本尊とする曹洞宗に属する寺で、文安5年(1448)生子山城主松木景村公が建立し、鎌倉より月担和尚を招いて、仏国山瑞應寺と名付けました。
 天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の際、小早川隆景の攻略により生子山城は落城し、寺も戦火にあいました。
 万治3年(1660)分外和尚を迎えて再興、広島県徳雲寺の九世白翁禅師を迎えて開山し、完全に再建されました。
 文政11年(1828)に焼失しましたが、天保元年(1830)に庫裡と梵鐘、弘化4年(1847)に本堂と僧堂、安政3年(1856)に山門と中門、回廊が完成し、更に明治30年(1897)に専門僧堂を開設し、禅門修行道場として広く学僧が出入りし、一般参禅者も後を絶ちません。現在、曹洞宗最高の別格に位置しています。
 本堂近くにある樹齢800年を数える大銀杏は、県指定天然記念物です。

長泉堂

 

瑞應寺本堂

 
 瑞応寺は別子銅山と縁の深い寺院である。

 旧別子にある蘭塔場は、元禄7年(1694)4月25日に発生した大火災の犠牲者132名を祀るためにつくられたものであるが、大正5年の旧別子撤退に伴い、蘭塔場の墓碑はここ瑞應寺に移され、西墓地に祀られている。
 また、東墓地には明治32年(1899)の大水害の犠牲者の霊が祀られている。
 
 瑞応寺本堂の向かって左側ある長泉堂は、これら別子銅山での殉職者を祀るために建てられた。
 現在でも毎年10月に住友各社の代表も参列して、長泉堂にて追弔法会が行われている。

大銀杏樹(県指定天然記念物)

 瑞応寺は文安五年生子山城主松木越前守景村公の建立によるものであるが、天正十三年の役に生子山城落城の兵火にかかり、戦後再建されたが、また文政十一年焼失の厄にあっている。
 明治三十年曹洞宗専門僧堂開設、禅門修行の名刹として世に知られるに至った。
 この老銀杏樹は鎮守金比羅大権現の奉祝にまつわる乳銀杏で、樹齢八百年と推定され、目通り8.5メートル、高さ27メートルの巨木で昭和三十一年十一月三日愛媛県の天然記念物に指定されている。
昭和五十四年一月二十四日
新居浜市教育委員会
 
 
 瑞応寺の東側にあるお堂の中に、県指定文化財に指定されている「大転輪経蔵」がある。
 「大転輪経蔵」とは、お経を納める大きな八角形の回転式経箱で、これを一回転させるだけで、納められている2千巻以上の教典を一回読んだと同じご利益が得られると信じられているものである。
 
 全国「にいはま倶楽部」から毎月、新居浜の市政だよりが送られてくるが、2008年の2月の市政だよりに、『瑞応寺「輪蔵」物語』という、新居浜ユネスコ協会事務局長の藤野卓郎氏の文筆が同封されていた。
 
 その文筆の一部を以下に引用します。
 
 北野天満宮から輪蔵に添えられて送られてきた由緒書きには、こう記述しています。
 尊い天満宮の輪蔵を最初に造るように願ったのは、足利三代将軍義満であった。 というのは、明徳の欄(1391年)で有力守護大名の山名氏清を滅ぼした義満が、その氏清の冥福を祈るために天皇をはじめとして宮中に仕える貴族から将軍、その直属の過信、守護大名までが手分けして書写した一切経を、京都の北野天満宮に奉納したのがきっかけになったからである。
 天満宮ではこのありがたい一切経を収納するにふさわしい壮麗なる輪蔵を明徳年中(1390〜1394)に製作を完了し、神社の鎮めとして代々所蔵してきた。
 それがあろうことか、明治新政府が発した神仏分離令(廃仏毀釈)のため、全国の神社から仏像や教典等、仏教的要素の排除が強行されていた明治4年旧6月、「伊予の国なる新居の郡角野村にありてふ瑞応寺に」輪蔵を移すことになった・・・・
 
 北野天満宮の輪蔵については、能の演目にもされているとのこと。

 謡曲「輪蔵」
 太宰府の僧二人が、北野天満宮に詣で、輪蔵の立派さに驚き拝んでいるところへ、大蔵経の守護神が現れ、5千余巻の経文を一夜にして読ませようと約束した。
 夜半となり、輪蔵の守護神がお経を携えて現れ、舞楽が奏でられるなか、僧の手をとって輪蔵を回し、経文を転読(とびとびに読む)させるのでした・・・。

大転輪経蔵(県指定文化財)

 この転輪経蔵は、将軍足利義満が山名氏の冥福を祈るために作り、京都の北野天満宮に奉納されていたが、明治四年神仏分離の際に、瑞応寺二十世黙仙方丈が、住友家はじめ多くの人々の喜捨を得て天満宮より譲り受けたもので、転輪蔵の中央には土台から屋根裏に届く太い中心柱があり、その柱を軸として周縁に取りつけた棚に、黄檗版二千余冊の一切経が納められ、転輪蔵をぐるぐる廻して礼拝すれば、一切経読誦の功徳があるとされており、昭和四十五年三月二十七日文化財として愛媛県の指定を受けている。
昭和五十三年三月三日
新居浜市教育委員会
 

新居浜のむかしばなし(平成元年2月「新居浜のむかしばなし」編集委員会編 新居浜市教育委員会 発行)より
 

 
月庭和尚の法力

 修行中の弟子や、中年の寺男が寝床に入り、眠りに着こうとした時でした。隣の部屋から、夜着のまま走り出て来た月庭和尚が、
 「たいへんだ。尾道のお寺が焼けている。手桶を持って下の池へゆけ。」
 と、自分も急いで手桶をひっさげて、弟子の下男を急がせ池におり、
 「尾道はこの方角だ。その方向へ水をかけろ。」
 と、夜着がびしょぬれになるのもいとわず、かけ声も勇ましく、手桶で水をすくってはかけ、すくってはかけ、尾道の方向へ、意気をくつひまもないばかりに水をかけるのでありました。
 しばらくして月庭和尚は、
 「やっと消えた。着物を着替えて休みなさい。」
 と弟子や寺男の労をねぎらうと、自分も手桶をさげて帰り、台所にしまうと、部屋に帰って何事もなかったように寝てしましました。
 
 そんなことがあってから数日後、尾道の天寧寺からお礼の使僧が来て、
 「先日当寺の火災にはたいへん御世話になりました。瑞応寺からの水が飛んで来たお陰で、あやうく全焼をまぬがれ、御本尊様もぶじでした。」
 と丁重な御挨拶をせられました。月庭和尚はというと、
 「それは何よりでした。お帰りになったら和尚さんによろしく。」
 と、いつに変わらない態度で挨拶をうけられたのです。
 
  時は元禄(1688〜1703)の頃です。はるばる尾道からの使者ですので、食事をしてもらったり、お弁当を用意してお帰り願ったのですが、食事のとき、月庭和尚がいないすきに弟子が、
 「どうして当寺からの放水とわかったのですか。」
 とおたずねすると、
 「伊予東角野村瑞応寺の大幟とともに、窓から水が滝のように降ってまいりました。」
 との返事に、弟子はびっくりしたということです。
 
  瑞応寺史によると、五世再中興・月庭要伝、享保十一年(1726)12月11日没、75歳とあります。
 
 
 
   瑞応寺から続く山道を登っていくと、金毘羅宮に到達した。
 ここには梵鐘も設けられていた。


 
新居浜のむかしばなし(平成元年2月「新居浜のむかしばなし」編集委員会編 新居浜市教育委員会 発行)より
 

 
萩尾山金毘羅宮由来記

 ある年のある日のこと、空がにわかに暗くなったかと思うと、南の山の方がぼおおっと明るくなりました。お百姓さんたちは大雨でも来るのかと、畑から帰りじたくをしたり、庭にいた人は家の中に入ろうとしていた時だそうです。
 南方の一部の空が明るくなったので、みんながその方へ目を向けたとき、空からひらひらと金色の御幣が降って来て、瑞応寺の東側の山の中へ落ちるのを見たそうです。今まで暗くなっていた空がもとのとおりとなり、天から降って来た御幣を見た人たちは大騒ぎとなり、つぎからつぎへとそのことが伝えられました。
 瑞応寺さんでも、それを見ておられ、時の和尚さんが御幣の落ちたところへ行ってみると、
 「金毘羅山大権現」
 と書かれた大きな御幣が土に刺さっていたということです。
 
 和尚さんはこの頃各地に「金毘羅講」がつくられ、その講連中の中から代表者が、讃岐の金刀比羅宮へ参拝にいく、「金毘羅参り」が盛んになっていた時なので、讃岐の金毘羅様が、わざわざ百姓がひまをつぶして讃岐路を訪れると丸二日はかかる。その二日間働けば仕事もはかどるし、藩からもいろいろいわれないだろうから金毘羅様をここにお祀りしろということだとお考えになり、うわさを聞いたり、現実に見たりした者が瑞応寺境内へ集まってきた時、そのわけをみなに話し、庄屋らにも頼み、御幣の立っていた場所に建立したのが、萩尾山金毘羅宮だといわれています。
 
 今でこそ参拝者も少なくなりましたが、戦前までは正月、三月、十月の十日を「お十日さん」といい、一日中雑踏の中でお参りせねばならぬほどの参拝者があり、当日は拝殿下の土俵では奉納相撲も行われていました。
 
 ここの常夜灯などの一番古い年代は天明八年(1788)春三月吉日で、天保八年(1837)のものもあり、鳥居は天保三年(1832)九月、狛犬は天保九年(1838)八月献納と彫られています。また、各地区にも寛政六年(1794)頃より常夜灯をつくり、奉献したらしく、現存のものでもJR線路より南に三六基、北に五基、この外に萩生南の坊萩生金毘羅宮のものと思われる常夜灯が三基あるようです。
 
 
 

   

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