瑞應寺は、釈迦如来像を本尊とする曹洞宗に属する寺で、文安5年(1448)生子山城主松木景村公が建立し、鎌倉より月担和尚を招いて、仏国山瑞應寺と名付けました。
天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の際、小早川隆景の攻略により生子山城は落城し、寺も戦火にあいました。
万治3年(1660)分外和尚を迎えて再興、広島県徳雲寺の九世白翁禅師を迎えて開山し、完全に再建されました。
文政11年(1828)に焼失しましたが、天保元年(1830)に庫裡と梵鐘、弘化4年(1847)に本堂と僧堂、安政3年(1856)に山門と中門、回廊が完成し、更に明治30年(1897)に専門僧堂を開設し、禅門修行道場として広く学僧が出入りし、一般参禅者も後を絶ちません。現在、曹洞宗最高の別格に位置しています。
本堂近くにある樹齢800年を数える大銀杏は、県指定天然記念物です。
長泉堂 |
瑞應寺本堂 |
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修行中の弟子や、中年の寺男が寝床に入り、眠りに着こうとした時でした。隣の部屋から、夜着のまま走り出て来た月庭和尚が、 「たいへんだ。尾道のお寺が焼けている。手桶を持って下の池へゆけ。」 と、自分も急いで手桶をひっさげて、弟子の下男を急がせ池におり、 「尾道はこの方角だ。その方向へ水をかけろ。」 と、夜着がびしょぬれになるのもいとわず、かけ声も勇ましく、手桶で水をすくってはかけ、すくってはかけ、尾道の方向へ、意気をくつひまもないばかりに水をかけるのでありました。 しばらくして月庭和尚は、 「やっと消えた。着物を着替えて休みなさい。」 と弟子や寺男の労をねぎらうと、自分も手桶をさげて帰り、台所にしまうと、部屋に帰って何事もなかったように寝てしましました。 そんなことがあってから数日後、尾道の天寧寺からお礼の使僧が来て、 「先日当寺の火災にはたいへん御世話になりました。瑞応寺からの水が飛んで来たお陰で、あやうく全焼をまぬがれ、御本尊様もぶじでした。」 と丁重な御挨拶をせられました。月庭和尚はというと、 「それは何よりでした。お帰りになったら和尚さんによろしく。」 と、いつに変わらない態度で挨拶をうけられたのです。 時は元禄(1688〜1703)の頃です。はるばる尾道からの使者ですので、食事をしてもらったり、お弁当を用意してお帰り願ったのですが、食事のとき、月庭和尚がいないすきに弟子が、 「どうして当寺からの放水とわかったのですか。」 とおたずねすると、 「伊予東角野村瑞応寺の大幟とともに、窓から水が滝のように降ってまいりました。」 との返事に、弟子はびっくりしたということです。 瑞応寺史によると、五世再中興・月庭要伝、享保十一年(1726)12月11日没、75歳とあります。 |
ある年のある日のこと、空がにわかに暗くなったかと思うと、南の山の方がぼおおっと明るくなりました。お百姓さんたちは大雨でも来るのかと、畑から帰りじたくをしたり、庭にいた人は家の中に入ろうとしていた時だそうです。 南方の一部の空が明るくなったので、みんながその方へ目を向けたとき、空からひらひらと金色の御幣が降って来て、瑞応寺の東側の山の中へ落ちるのを見たそうです。今まで暗くなっていた空がもとのとおりとなり、天から降って来た御幣を見た人たちは大騒ぎとなり、つぎからつぎへとそのことが伝えられました。 瑞応寺さんでも、それを見ておられ、時の和尚さんが御幣の落ちたところへ行ってみると、 「金毘羅山大権現」 と書かれた大きな御幣が土に刺さっていたということです。 和尚さんはこの頃各地に「金毘羅講」がつくられ、その講連中の中から代表者が、讃岐の金刀比羅宮へ参拝にいく、「金毘羅参り」が盛んになっていた時なので、讃岐の金毘羅様が、わざわざ百姓がひまをつぶして讃岐路を訪れると丸二日はかかる。その二日間働けば仕事もはかどるし、藩からもいろいろいわれないだろうから金毘羅様をここにお祀りしろということだとお考えになり、うわさを聞いたり、現実に見たりした者が瑞応寺境内へ集まってきた時、そのわけをみなに話し、庄屋らにも頼み、御幣の立っていた場所に建立したのが、萩尾山金毘羅宮だといわれています。 今でこそ参拝者も少なくなりましたが、戦前までは正月、三月、十月の十日を「お十日さん」といい、一日中雑踏の中でお参りせねばならぬほどの参拝者があり、当日は拝殿下の土俵では奉納相撲も行われていました。 ここの常夜灯などの一番古い年代は天明八年(1788)春三月吉日で、天保八年(1837)のものもあり、鳥居は天保三年(1832)九月、狛犬は天保九年(1838)八月献納と彫られています。また、各地区にも寛政六年(1794)頃より常夜灯をつくり、奉献したらしく、現存のものでもJR線路より南に三六基、北に五基、この外に萩生南の坊萩生金毘羅宮のものと思われる常夜灯が三基あるようです。 |