東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内/宗像神社

宗像神社


 新居浜市役所の東側、八雲町にある神社。
 神社としてはそれほど大きいものでは無いが、境内には多くの石碑などがある。

 その中に、東人の住む星越の山田社宅を作った鷲尾勘解治の頌徳碑が有った。
鷲尾勘解治先生頌徳の碑
 
 
 鷲尾勘解治先生頌徳の記


 先生は明治14年神戸市須磨区白川神職鷲尾弥三左衛門の長子として生まれ、熊本第5高等学校を経て京都帝大法学部入学、在学中共に寺小僧となり禅の善行を積み同40年大学を卒業された。

 同年10月住友本社に入社、別子鉱業所勤務を命ぜられ同時に自ら坑夫を体験、また、私塾自彊舎を開設長く坑夫従業員の訓育教化に努められた。

 会社の経営は常に地域の共存共栄と労資協調を理念とし大正末年の大労働争議には不動の信念と道に立ってこれを処理し併せて親友会、改善会を組織し社内の真風と市民精神の作興に尽奔せられた。

 鉱山末期の兆候を予見しては、当地に諸事業の存続は勿論、さらに昭和通りその他の道路、大築港の開発、海面埋立工事の実施等、地域発展、企業育成の諸施策を企画推進せられ今日の工都新居浜の大基礎を確立された。
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昭和18年再度当地に迎えられてからは益友会を発会、自彊舎を再開、四国遍路の実施、刑務所教講師をも努められ、広く市民、受刑者に及ぶ教化活動をつづけられている

 これらの功績によって入社当初2回に亘る住友家長特別表彰を、昭和8年住友本社常務理事を最後に退社されましたが、戦後は愛媛新聞社賞、県教育文化賞、勲五等瑞宝章を受けられた。

市民有志は、この5月、先生白寿の祝賀会開催につづき、その希な長寿高徳を仰ぎ、工都建設の偉大な業績を思い、ここに頌徳の碑を建立するものである。

昭和54年8月吉日

燧洋倶楽部会員
益友会会員
その他有志

原宏謹書

 
 

 神社の前の道を渡ったところにも、宗像神社の長い参道が続いていた。
 ここの参道に生えた木々は、新居浜市指定の天然記念物になっていた。

 
 

 天然記念物

 宗像神社の参道と社叢

 昭和60年(1985)11月5日 市指定

 宗像神社の参道約200mの両側に、クスノキの大木やエノキ、クロガネモチ、イチョウ(裁植)等の高木にまじって、ネズミモチ、アラカシ、ヤブツバキ、イヌビワ、サンゴジュ(裁植)等がおい茂った長い参道は、県内でも珍しいことです。
 また、宗像神社の社叢は、クスノキの大木のおい茂る林にエノキ、クロガネモチ、ヤブニッケイ、メタセコイヤ(裁植)等の高木とまじり合って、ミミズバイ、アラカ、ヤブツバキ、ネズミモチ、マサキ、シュロ、カクレミノ、シロダモの常緑樹で占められます。
 この社叢は、新居浜市の平地部では、一宮神社につぐ貴重な社叢です。
 市街地の中央にあるこの社叢は、破壊されやすいので、大切に保存することにつとめましょう。


 新居浜市教育委員会
 


宗像寺


 宗像神社の参道の横には如意山荘厳院 宗像寺がある。
     梵鐘のある独特の形式の山門
   「新居浜市史」(昭和55年刊)より

 高野山真言宗に属し、薬師如来を本尊とし、仁明天皇の承和11年甲子(844年)、恵徳和尚の創建した古刹にして、後宗像神社の別当寺となり、神社とともに、相当の寺領を有し祈祷寺として滅罪のことを一切司らず、宗像神社の宮司とともに社務にも参画した。
 天正13年(1585年)7月、豊臣秀吉の四国攻めに際し、小早川の軍と戦い、敗れ兵大の災禍を蒙ったところの庄内祢宜の前真福寺を合併して、以後滅罪のことも司ることとなったが、元禄5年西条藩の命によって宗像神社の別当寺をやめることになった。
 その後文化2年(1805年)火災にかかり、庫裡、本堂等を焼失したが、西条加茂の人の協力により、現在の建物を再建したのであって、本尊は無事であった。