東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内生子山

生子山

   山根公園の近くの山には、煙突が立っているのが見える。この山は、別名「煙突山」とも呼ばれる。
 かつて、山根精錬所があったことの名残の煙突である 。
 この山の麓には現在、大山積神社別子銅山記念館などがあるが、かつては、ここに山根精錬所があったという。



 
 別子銅山記念館の近くに生子橋という橋があり、精錬夫像というモニュメントが築かれている。



「精錬夫像」

 精錬夫とは、砕かれた鉱石を焼き、その焼鉱を一番吹更に二番吹きと「吹床」で吹きわけ、実に2ヶ月間もの時間をかけて、製品の一歩手前の「あらどう」の状態にする仕事に従事していた人たちです。

 (生子山の煙突は山根湿式精錬所用のものです。)

 作者 阿部誠一
 

  


 暫くの間、煙突山は遠くから確認するのみであった。
 2000年8月18日、近代化産業遺産全国フォーラムが新居浜で開催され、その中で企画された視察に参加した。「赤煉瓦コース」に参加したが、その中には山根精錬所跡も視察コースに入っていた。
 視察の当日、山根精錬所に回る頃に雨が降り出して、煙突山には寄らずに次の目的地に向かい、結局、煙突山には行けなかった。




 その後、別子銅山記念館付近で、煙突山に登る道を見つけた。
 別子銅山記念館より少し登った所、生子橋の反対側辺りに登り口があった。 


 山道を登りつめると頂上に煙突がそびえていた。

 古い写真を見ると、山根精錬所から煙突山の煙突まで、山に沿って煙道が設けられていたようだが、その名残は確認できなかった。
 
 天正十三年(1585)、豊臣秀吉の命をうけた小早川隆景による四国攻略にて、金子備後守元宅の金子城を初めとして、多くの砦が滅ぼされた。この戦いは「天正の陣」と呼ばれている。
 ここ、生子山にも松木三河守が砦を構え、小早川隆景の大軍と戦った。
 これはその時のエピソードである。
新居浜のむかしばなし(平成元年2月「新居浜のむかしばなし」編集委員会編 新居浜市教育委員会 発行)より
 

 
山上馬を洗うの奇計

 生子山城のまわりを、うんかの如き小早川隆景の大軍が取り囲み満を持している。東の西谷川・西の芦谷川の水源を極め、城中、水がないのを確認し、わが大軍を前にわずか二〇〇の城兵がいかに対応するかを見守っている。
 ところがである。烈々たる晴天のもと、山上二の丸付近に一頭のウマが曳き出された。小早川の将兵は何をするのだろうと見ていると、二、三人の小者が姿を見せ、木桶に水を汲んで、ウマを洗い始めた。
 「あっ。」
 びっくりした小早川軍は瞳をこらしたが、ウマを洗う仕草は間断なく続けられた。
 すぐ水源の確認が行われ、物理的に城中に多量の水が無いのが確認された。
 「あれは何か。」
 小早川軍は判断に迷った。攻撃をかければ二、三日で落城するであろうが、それよりもわが戦略的判断の不確実さが悔やまれるのである。
 その時、城の下で、一人の老婆を小早川軍はつかまえた。老婆はその場へ引き据えられた。その時、小早川軍にひらめくものがあり、
 「あれは何か?」
 山上を指差した。問いただす足軽頭の右手には一条の利剣、左手にはひとつかみの小銭が鳴った。
 「あれは、あれはお米を流しております。」
 老婆はあえぎながら城を見上げた。
 「ふうん。」
 拍子抜けした足軽頭が鼻を鳴らした。
 「放してやれ。」
 小早川隆景は仁慈の武将であり、無益の殺生はしない。山上では米を流すしぐさをやめないので、すぐ攻撃がかけられ、しばらくして落城した。
 老婆のその後の消息は誰も知らない。
 

城主神社

   山根公園から国領川を少し下った所に「しろぬし橋」という橋が架かっている。しろぬし橋の近くに城主神社がある。
 ここで祀られている城主とは、天正の陣で討死した生子山城主松木三河守安村のことである。
 城主神社の中に、生子山城主松木三河守安村公之碑が建てられている。
 
 松木三河守の碑は、西条の野々市原古戦場にある千人塚の横にも建てられている。