東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内市内散策


市内散策


 近所を散歩したり自転車でサイクリングしていると、車で通ったときには気づかなかった小さなスポットを発見する。
 

        
 
中須賀の金比羅さん (中須賀町)
文殊神社      (中須賀町)
新居神社跡     (西町)
小女郎狸像     (西町)
マナベ小児科    (西町)
みなと保育園   (港町)
厄除け地蔵    (港町)
恵比寿神社・魚塚 (港町)
口屋カナル
お魚バザール
水路
 
旭地蔵堂 (新須賀町)
お堂  (新須賀町)
石鎚神社(新須賀町)
宇高薬師堂(八幡)
旧風呂屋 (垣生)
大樽 (垣生)
垣生山 (垣生)
金比羅神社(垣生)
泉大師(松神子)
客土記念碑(松神子)
明教寺(松神子)
パゴダ幼稚園(松神子)
金比羅宮(多喜浜)
お地蔵さんと荷内橋(阿島)
妙見さん(阿島)
精農村上清光の碑(阿島)
 
北泉井戸  (北新町)
給水塔   (北新町)
こはま地蔵  (江口町)
太鼓台格納庫 (江口町)
宰之神霊   (河内町)
へんろ地蔵  (久保田町)
 
若宮神社      (新田町)
風ヶ浦地蔵堂    (新田町)
お社日さん     (新田町)
龍王神社      (惣開町)
新田 不動庵    (王子町)
磯浦地蔵堂     (磯浦町)
西の谷 大山祇神社 (磯浦町)
 
坂井十郎神社(庄内町)
青木神社  (政枝町)
西瀧神社  (滝の宮町)
三崎神社旧跡(横水町)
黒岩橋   (中萩町〜萩生)
自然学習園 (中萩町)
萩生寺入り口 (萩生)
新居郡立農学校跡地 (萩生 岸ノ下))
石塔と地蔵     (萩生 岸ノ下)
祇園神社の石碑   (萩生 岸ノ下)
中萩駅   (大生院)
こんぴらへんろみち          
 
十河信二先生出生の地(中村)
鳥居          (中村)
お遍路さん      
高橋酒造 (土橋)
洋館 (喜光地町)
上泉 毘沙門堂 (上泉町)
地蔵堂 (星原町)
近藤石山先生垂教之地 (星原町)
林香庵 (下泉町)
庄内薬師堂 (庄内町)
水害記念碑 (庄内町)

金比羅宮

 多喜浜小学校近くで小さなお堂を見かけた。
 
 

金比羅宮

 
 この金比羅さんは、寛政9年(1797)に白浜の岡本幸八郎道孝さんとその子供道信さんが多喜浜の塩田の完成と塩を運ぶ船や塩田で働く人の安全を願って讃岐の金比羅宮から神霊を分けていただきこの場所におまつりした。
 お祭りは旧暦の10月10日で子供相撲が行われていた。
 常夜灯には弘化4年(1847)5月「東村内安全」と書かれており、このあたりは東村と呼ばれていた。
 この金比羅宮には
 大己貴命 事代主命 金山彦命 大国主命
 をおまつりしている。
 
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お地蔵さんと荷内橋

 市役所通り(壬生川新居浜野田線)を東に進み、黒島付近を過ぎた所の橋に立て札が立っていた。
 
 

お地蔵さんと荷内橋

 
 昔は、阿島川に橋がなかった。
 そのため、荷内へ往き来するには小舟で縄を伝って渡っていた。また、農家は年貢米を船で新田まで運んでいた。
 昭和初期に、地主の加藤悦延さんは自分の山の松の木で、阿島川にはじめて橋を架けた。この橋は。現在の荷内橋から約60m上流(妙見さんの東側)にあった。
 お地蔵さんは、橋が無事完成するように願っておまつりされたと伝えられている。
 その後、何度か橋の改修工事が行われ昭和53年3月に現在の荷内橋が完成するまでその役割を果たしていた。
 
 
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妙見さん

 荷内橋の近くに小さな山があり、そこに立て札が立っていた。
 
 この山の頂上に妙見さんが祀られているようだ。
 
 立て札には、「山頂へは、ここから登れます。」とあるが、急な斜面であり、簡単には登れそうになかった。

妙見さん

 
 慶応元年(1865)三喜浜塩田開発のため東浜塩田の東堤防に沿って流れていた阿島川を、現在のように阿島の山際を流れるように改修した。
 この時、東西に続いていた三ツ杭山を切り拓くことになり、機械がない時代で大変な難工事であったので、工事の無事を祈って岡本家でおまつりしていた妙見大菩薩をこの場所にもおまつりした。
 お祭りは旧暦の3月14日と8月14日に行われている。山頂には祠・山桃の古木、「南無妙法連華経妙見大菩薩」の碑がある。
 
 山頂へは、ここから登れます。
  
 
 
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精農村上清光の碑

 市役所通り(壬生川新居浜野田線)をさらに東に進むと、立て札が立っているのが目に留まった。
 
 この地域の農業改革に貢献した村上清光という人を称える碑が建っていた。

精農村上清光の碑

 三ツ杭地区は、海抜ゼロメートルの水田が多く、台風の時には海水による稲への被害が絶えなかった。
 そこで昭和30年村上さん達は、台風までに収穫が終わる早期米の集団栽培に取り組むことにした。稲は順調に育ち出穂したが、鳥害に困っていたところ「私が何とかしよう」と自ら役を引き受け、朝夕、田んぼを廻り猟銃で鳥を追い払っていた。
 その甲斐があり、稲は黄金色に稔り皆で喜び合った。稲刈り間近の8月15日、不慮の事故により帰らぬ人となった。
 このとき、耕作者一同「稲が見事に稔ったのは村上さんのお陰じゃ」と田んぼが見えるこの地に碑を建て感謝の意を表した。
 
 
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近藤石山先生垂教之地

   愛機エンジニアリング 事務所と表札のでている敷地内に「近藤石山先生垂教之地」と書かれた石碑があった。
 

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林香庵

 新居浜駅の南東方向に市の文化財となっている庵がある。
  新四国第十三番札所。
 

御本尊十一面観世音

 
 そのむかしいつよ
 なるらんりんこうど
 かんのんばらに
 のりのともしび
 
 
新四国第十三番 林香庵

 
 あわのくにいちの
 みやとわゆうたすき
 かけてたのめや
 このよのちのよ
 
 
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庄内薬師堂

   庄内町の住宅地の中に薬師堂がある。
 常福寺の薬師堂であったが、天正陣で焼かれて本尊の薬師如来の片手が損傷し、それ以来、片手薬師と呼ばれて信仰される。
 新四国新四国第十一番札所
 

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水害記念碑

   城下橋の西北の所に水害記念碑がある。
 明治32年(1899) 8月28日の別子銅山大水害があったことを伝えるものである。
 旧別子の高橋精錬所や見花谷や両見谷の従業員社宅が山津波により流され、死者513人を出したという水害であるが、下流域でも国領川の堤防が破れて甚大な被害が生じたという。
 
 これより下流の新須賀町に旭地蔵堂があるが、ここも別子銅山大水害で流されてきた遺体の供養のために建てられたものである。
 

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近郊の観光地/市内