県指定 天然記念物 幹の目通り2.6m、板状になった枝張りは、東西に14m、南北18.1mの棚いっぱいにきり整えられて、樹齢400年余りと伝えられる老木樹である。 「のだふじ」は一般にふじと呼ばれ、温帯から暖帯にかけて生育する蔓木で、山地に多いやまふじが左巻きづるで花房が短いのと違って、これは右巻きづるで花房は大変長い。 四月下旬から5月上旬にかけて花房が棚一面に下がり観覧者の目を楽しませている。 昭和43年3月8日 指定 |
天正十三年六月、豊臣秀吉は四国征伐の軍を起こし弟秀長、甥の秀次に兵六万を授けて阿波に向かわせ、岡山の城主 宇喜多秀家を讃岐に(其の兵二万余)毛利輝元を伊予に(其の兵三万余)遣し、三方より進んで、長曽我部元親(四国全土を平定していた)を討たせた。 毛利輝元の軍に属した小早川隆景が中国勢をひきいて伊予に上陸、連戦連勝破竹の勢いで諸城を陥れ、遂に氷見の高尾城に迫りてこれを降し神戸の高峠城に向かって進撃した。 時に徳常寺の任瑞和尚は禎祥寺(今の観音堂のある所)の林瑞和尚等と共に寄手の軍勢を迎えて花々しく戦ったのである。任瑞和尚は怪力の持主で寄手の軍勢寺内に乱入するを見るや、墓石を手玉の如く取ってはなげ、とっては投げ阿修羅の如く奮戦、寄手の軍兵も其の怪力に驚き、近寄るものもなかったと、言い伝えられている。 任瑞和尚等の奮戦のかいもなく、中国勢の兵火にかかり徳常寺、禎祥寺共に焼失し、任瑞、林瑞の両和尚も相ついで戦死した。 時に天正十三年七月十七日、 任瑞和尚の屍を悼み徳常寺境内の一角に葬り五倫の塔を建て、これを祀ったのである。 これが此の五倫さんである。 「なぎの木さん」の愛称で親しまれた境内の梛の大木も今は朽ちはてて無く、徳常寺の遺跡として天正の昔を物語るものは、此の五倫さん唯一つとなったのである。終わり |
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