タイトル | : Re^7: ワッハーブ派のセオリー |
投稿日 | : 2009/08/15(Sat) 00:48 |
投稿者 | : FF |
アッサラーム アライクム
> >ムチで脅して礼拝させるのが可だという句があるなら、まず、そちらを引用してくださいな。
> Hadith - Dawud, Narrated As-Saburah
> The Prophet said: Order your children to pray at the age of seven. And beat them [lightly] if they do not do so by the age of ten.
>
> 彼らはこれを解釈したのだと思います。
でもこれは自分の子供に対してであり、「拡大解釈」のような気がしますけど。
>
> >原則的に、私は、シャハーダした人はムスリムだと思っています。
すみません。この意見はSOさんのご意見ですか、それともkawtharさんのですか。
>
> 砂漠のアラブたちは、「わたしたちは信仰します。」と言う。言ってやるがいい。あなたがたは信じてはいない。
> ただ『わたしたちは服従しました』と言いなさい。信仰はまだあなたがたの心の中に入ってはいない。
> もしあなたがたが、アッラーとその使徒に従うなら、かれはその行いに就いて、少しも(報奨を)軽減されることはない。
> あなたのシャハーダの定義は、単に入信しただけの人やイスラムの家に生まれただけのものでしょうか?
> それともアッラーの絶対性とクルアーンの正当性を確信している人のことでしょうか?
> 前者だけなら、まだ昔の砂漠のアラブ達と同じ状態です。
> それにムスリムの定義は、アラビア語の意味です。
すみません。「ムスリムの定義は、アラビア語の意味です」という意味がよくわかりません。
ムスリムとは「帰依した人」と普通、訳されています。
昔の砂漠のアラブ達は↑のアーヤ(49:14)でも「クールー アスラムナー(「私たちは帰依しました」と言いなさい)」と記されているので彼らはムスリムですよね。ただ「ムウミン(信仰者)」ではないという意味だと思います。
日訳サヒーフ ムスリム第1巻 110pにも同様の説明が書かれています。「ムスリムとはイスラーム信仰を告白した者」
「クルアーンとスンナに従えば決して迷わない」と我等が指導者ムハンマドさまSも仰っていますから、誰も異論は唱えないと思います。
《アッラーと使徒に従いなさい。そうすればあなたがたは、慈悲を受けられるであろう。》(3:132)
《使徒に従う者は、まさにアッラーに従う者である。》(4:80)
ただ「厳格」はやはり望ましくないことのようです。
アラー・フライラによるとアッラーのみ使いSは言われました。
〈イスラームは行うに易しい教えであるから、掟を守るのにあまり厳格にならないように。さもなければ、人は耐えられない。〉
〈アブー・フライラによると、或るとき一人のベドウィンがモスクで小便をしたので信徒達は彼を罵りました。すると預言者Sは
「放っておきなさい。そして小便の上に桶一杯あるいは鉢一杯の水をかけなさい。あなたがたの使命は物事易しくする事であって難しくすることではないから」〉
「復古主義(サラフィー派)」は、出自からしてマジョリティーを占める「学派主義」に異議を唱える立場であり、本質的に論争的、攻撃的である。中でもクルアーンとスンナに直接の典拠を有さない儀礼、思想を全て真正なイスラームからの逸脱であり、また被造物の神化、多神崇拝であるとして断罪するワッハーブ派は、その非妥協的な攻撃性をもって知られている。(イスラームの信仰ースンナ派信条ーハサン中田考氏訳p56ムスリム新聞社発行)
とありますように、他の宗派のムスリムを「不信者呼ばわり」したり、その行為(ハディースにあっても、それがサヒーフ(真正)ではなくダイーフ(弱い)である場合にも)を「ビドア(新規のもの)」と断言したりすることが往々にしてあるワッハーブ派の やり方は
アブドッラー・ビン・マスウードによると、アッラーのみ使いSはこう言われた
「同胞のムスリムを非難することは不法であり、ムスリム同士が相争うのは不信行為である」
というハディースに反しませんか。
「学者の(意見の)相違はアッラーの慈悲」とも「大フィクフ」にあるように、他のマズハブ(学派)の意見も尊重し、ムスリム同士の分裂や非難批判の応酬を避けるべきだと思います。
ただ派がいくつも分かれることは、予め決められていたことのようですね。
〈アナス・ビン・マーリクによると預言者さまSは仰っていました
「このウンマは73の派に分かれるであろう。(後略)」〉
私たちの行為がアッラーに受け入られますように