タイトル | : Re^9: ワッハーブ派のセオリー |
投稿日 | : 2009/08/16(Sun) 23:23 |
投稿者 | : FF |
アッサラーム アライクム SOさん
> >日訳サヒーフ ムスリム第1巻 110pにも同様の説明が書かれています。「ムスリムとはイスラーム信仰を告白した者」
>
> それを解釈すると単に入信を宣言したものが、ムスリムという意味になりますね・・・。
イブン・カースィール師の解説もそうなっています。
49章14節の解説には、サヒーフ(真正)であるムスリム(1:132)のこの部分のハディースを引用しています。日訳では第1巻110pです。
このベドウィンはアサド族の一団であり、このアーヤ(聖句)では「ムスリム」と「ムウミン」の違いを述べていると解説されています。彼らはムスリムであって、ムナーフィク(偽信者)ではない。ただまだ彼らの心に信仰が入っていないということだと記されています。タフシィール・イブン・カースィール英語版(ダールッサラーム版)第9巻211pアラビア語だけのでしたら1306pの右の欄です。アル=ファルク バイナ=ル=ムウミニ ワ=ル=ムスリム(ムウミンとムスリム間の相違)と記されたところです。
(I might give some men and give nothing to others, even though the latter are dearer to me than the former. I do not give them things for fear that they might be thrown on their faces in the Fire.)'' This Hadith is recorded in the Two Sahihs. Therefore, the Prophet made a distinction between the grade of believer and the grade of Muslim, indicating that Iman is a more exclusive grade than Islam. I mentioned this subject in detail supported by evidence, in the beginning of the explanation of the chapter on Iman in Sahih Al-Bukhari, all praise is due to Allah and all the favors are from Him. So this proves that the bedouins whom the Ayah mentioned were not hypocrites, rather they were Muslims in whose hearts Faith was not yet firmly established. They claimed a higher grade for themselves than the grade that they earned, and they were taught a lesson as a consequence. This meaning agrees with the meaning given by Ibn `Abbas, Ibrahim An-Nakha`i, Qatadah and that preferred by Ibn Jarir. These bedouins were taught a lesson,
http://www.tafsir.com/default.asp?sid=49&tid=49943
> 「イスラム信仰を告白した人=帰依した人」とはなりませんよ。
これにはふたつの意見があるようです。その根拠がSOさんが↓で引用なさった第2章133節です。これは舌と身体と心による真の服従のこと。そして↑の根拠が第49章14節で、心を伴わない舌だけの服従もあるとのことです。
アル=ジャラーライン第3巻376P(日本サウディアラビア協会版)に記されています。是非ご覧下さい。
> >昔の砂漠のアラブ達は↑のアーヤ(49:14)でも「クールー アスラムナー(「私たちは帰依しました」と言いなさい)」と記されているので
> >彼らはムスリムですよね。ただ「ムウミン(信仰者)」ではないという意味だと思います。
>
> 「帰依すると言いなさい」とは「まだそう言っていない」という意味になります。
「アスラムナー(私たちは帰依しました)」という完了形です。第四形のアスラマ(イスラーム教徒になる)の1人称複数形です。実際彼らは、旱魃の年にアッラーのみ使いSの許にやってきて、イスラームに入信することを表明したのですから。つまりシャハーダしたということです。彼らは「アーマンナー(私たちは信仰しました)」と言ったので、「そうではなく、アスラムナー(ムスリムになりました)と言いなさい」と窘められたのです。
> 信仰するという気があるだけで、まだ従っていないのです。その後、どうなったかは記されていません。
> 愚か者でもない限り、誰がイブラーヒームの教えを避けるであろうか。まさにわれは、現世においてかれを選んだ。
> 来世においても、かれはきっと正義の徒の1人である。
> 主がかれに向かって、「服従、帰依しなさい。」と仰せられた時を思い起せ。かれは、「わたしは、万有の主に服従、帰依します。」と申し上げた。
>
> あなたの論理なら、この句に矛盾します。
私の論理というより、イブン・カースィール師はじめ多くの学者の意見と捉えていただきたい。SOさんのご意見も学者間では、ひとつの意見として認められていると思います。
法学派でもさまざまな意見があり、私たちはそれを尊重するべきだと思いますが、いかがでしょうか。
アッラーがシャハーダしたムスリムに「ターア(服従、敬虔な行い)」な気持ちを入れてくださいますように。そしてより多くのムスリムの心がイーマーン(信仰心)に満たされたムウミンになりますように。
> 定義の話は、もうやめたほうがいいかもしれません。
> このような意見もあるということで・・・。
SOさんの意見も正しく、またkawtharさんの意見も正しいのでしょうね。アッラーフ アアラム。でなければ未熟なムスリムたちをムナーフィク(偽善者)扱いするという罪を犯す惧れがありますから。
尊敬するイスラームの先生が仰った言葉「私たちは他の(間違った行為をしている)ムスリムをジャッジする裁判官ではなく、病いを癒す医者になるべきです。」をいつも心がけ、預言者さまSのように、その人その人にあった助言に努め、いかにその人に素直に受け入れられるような言い方、接し方ができるか、私たち全てのムスリムが、試されているのだと思います。
アッラーが受け入れてくださいますように。