タイトル | : Re: コーランを読んでみております |
投稿日 | : 2012/08/26(Sun) 20:13 |
投稿者 | : 匿名の一人 |
> コーランのこの教えは、大変いい教えであると共感します。日本人の親孝行の道と同じものがあります。ですが、アッラー以外の神を崇めてはならないと禁じているのは、信仰の自由や思想の自由、祭祀の自由を禁じる恐ろしいイスラムによる絶対的神権独裁体制、恐怖政治になってしまい、人々に幸せな生活を保障することはできないのではないでしょうか。
人間の善意をイスラームは否定しません。
人間が世を変える、人間が他人の力になる、なれることをイスラームは否定しません。
信徒でない者の善行ですらアッラーは評価してくださいます。
しかし、「究極的に、誰の力で世の中がまわっているのか」という点に関して、イスラームでは「アッラー以外には究極の権力を持っているものはいない」ので、だからこそ「それを理解しているならば、アッラー以外のものを崇めてはいけない」となるのでは。
そのイスラームの根幹を否定しては、もはやそれはイスラームではありません。
ホメイニ師を例に挙げられましたが…済みません、彼に関してはよく知らないので何も言えません。
しかし、神と人間は同じではありません。
神は完全で、人間は不完全です。
「アッラーのみを崇める」ことと「独裁者の政治体制」は同レベルで議論できません。
別のツリーに書かれた日本丸さんの投稿にも書く予定ですが、日本丸さんは「日本の文化」と「イスラームの基本」を同レベルで議論されようとしています。
それは異種格闘技のようなもので、正しい比較になりません。
親孝行の考えは、世界でも大なり小なりあるのですが、日本のそれは儒教の影響が強いと言われています。
日本人の鷹揚な考えというものは、日本の歴史上そうせざるを得なかったために長い年月をかけて出てきたものでしょう。
それでもクマソ討伐やアイヌの支配等を考えると、日本人が鷹揚である、とは言い切れないと思います。それは他の国・民族も似たようなものかもしれませんが。
ムスリムでもいろんな資料や思想を読むでしょう。
しかし、根幹の「アッラーの唯一性」なしに他の思想を取り入れる事はないと思います。
逆に言えば、他の宗教や哲学を自由に吸収しないのは、それぞれの思想の意図するもの(目的・動機)がバラバラだからだと思います。
ある人がたとえていました。
私は腕時計を作りたい。それも高性能で多機能で素晴らしいものを。
だからと言って腕時計のフレーム(自分の理念)に最新型の液晶TVの部品を取り出してそのままフレームに押し込んだり、スマホの音声検索装置をそのまま詰め込んだり、災害時に充電できるようにと家庭用のソーラーパネルを削り取ってはめこんだりはしないでしょう。
小型化したり、軽量化したりして「腕時計のフレーム(自分の理念)に合う」ようにして、どうにか機能するようになるのです。
そうではなく単に機能(思想)を無暗に詰め込んでいったら、きちんと部品がかみ合わず、時を知らせる、という基本的機能ですらきちんと動かなくなる可能性も大です。