タイトル | : Re^2: イスラムへの否定的な疑問 |
投稿日 | : 2008/11/24(Mon) 01:42 |
投稿者 | : うんむらふま <ummu_rahmah@infoseek.jp> |
アッサラームアライクム
少しお話させてください。
下記、参考までに抜粋のものを記載しました。
今は、あまり時間がありませんので…詳細はまたの機会に書かせてください。
宗教を理解する上で理性は有効に利用されうる。哲学を否定することによって、神学者たちは理性を否定したのではない。むしろ逆に、彼らは理性の価値については、適切な範囲において用いられる限り、それを熱心に支持した。このような立場を支持する根拠をコーランに見出すことは困難ではない。コーランは、人間がその教えを盲目的に信じるよう要求しているわけではなく、信仰者も不信仰者も、共にその理性を行使して思索し、瞑想し、理解するように求めているからである。コーランは、先行者たちに盲目的に従わないように警告し(2章170節・5章104節)、聞く者の理解に繰り返し訴えかけている(3章65節・12章2節)。コーランの教えは神的権威に基づくものであるが、それはしばしば理性的な説得によって信仰を生み出そうと努めている。コーランの中で述べられている儀礼はしばしば理性の中に基礎づけられ、イスラム教徒(ムスリム)たちはその精神や目的を理解するように命じられている。儀礼の多くはムスリム自身の福利に寄与するように企図されている。例えば、礼拝するムスリムは[それによって、神の]不興と不名誉を蒙ることはより少なくなる。なぜなら、礼拝するムスリムは神を思念するからである(20章14節)。ザカート、つまり慈善行為の実践は儀礼ではないが、少数の人間に富が蓄積されることを防止し、富の一部を広く共同体に分与することを企図したものである(9章60節・59章7節)。重要なことは、理性的理解ということは伝統的イスラムの中で非常に高く評価される側面であったということを認識することである。〜オリヴァー・リーマン著・中村廣治郎訳『イスラム哲学の扉』より
ある者は、世界内で生じるものの全ては、善も悪も、行為も言葉も、アッラーの定命と予定によっているのであり、人間の自由意志は全くないと主張した(ジャブル派)。また別のある者は、人間から発するところのものは全て人間の目的と意志の所産であり、人間の能力と自由意志によって実現するもので、アッラーの能力や意志はそれには関係ないと主張した(カダル派)。しかしながら、真理の教説とは、結果を生み出しているのはアッラーの能力と人間の能力という二つの能力の統合したもの―なぜなら、人間から出てくる行為の全てはアッラーの定命と予定によるのだが、人間は自由意志を持っているからである。従って、予定はアッラーに属し、行為の獲得は人間に属するのである。この教説が決定と予定の中間の主張であり、スンナ派の人々はこの主張に依拠している。〜ガザーリ著・松本秋郎訳『イスラームの基礎四十講』より
以上です。