東人の新居浜生活あかがね探訪石見銀山


石見銀山


 島根県に出かけることがあり、大田市にある石見(いわみ)銀山に立ち寄った。
 石見銀山は世界遺産にも登録を申請している所で、銀山の坑道(間歩:まぶ)や近くにある江戸時代の街並みが保存されている。
 
 銀山では、約600程の間歩の入り口が確認されているが、その中でも龍源寺間歩は観光用に整備され、通り抜けができるようになっている。
 

 石見銀山は、山奥の間歩のある地域(銀山エリア)と、代官所跡や江戸時代の街並みが残っている地域(大森エリア)からなる。
 
 石見銀山は比較的人里近くにあり、大森エリアは平坦な土地であり、今でも人が居住している。
 別子銅山が深い山奥にあり、当時の人々が山の斜面に居住していたのとは対照的である。
 
 
 山陰線の大田市駅から石見銀山方面に行くには、大森・大家線・川本線のバスがあるが、本数が少ないので事前に時刻を調べておく必要がある。
 このバスで、大森代官所跡の停留所で降りると、土産物屋の前にコインロッカーがある。大きな荷物がある場合は、ここに預けて出かけると良い。 また、貸し自転車もある。
 石見銀山地区内を運行するバスもあるが、一日9往復しかなく、バスを待っているよりは、貸し自転車を利用するか、歩いた方が良いだろう。


 代官所跡
 大森の町並み
 大田市町並み交流センター
 観世音寺
 郵便局
 羅漢寺
 大久保石見守の墓
 山吹城城門
 豊栄神社
 

 石見銀山の大盛
 新切間歩
 福神山間歩
 高橋家
 龍源寺間歩(入口)
 龍源寺間歩(坑内)
 龍源寺間歩(出口)
 栃畑谷
 佐比売山神社
 清水谷精錬所跡
 安養寺
 銀山大盛祈願道場碑

 石見銀山絵巻
@四つ留之図
A四つ留役所之図
B御代官様銀山御見廻之図
C四つ留役所前柄山捨場
D鋪内之図
E片立木留之図
F留山師両立木留いたす図
G大水鋪角樋ニ而水引揚ル図
H唐箕風箱之図
I留木拵之図
J四つ留役所ニ而御入用払之図

鉱石を掘る
鉱石を運ぶ
坑木を組む
水をくむ

別子銅山との対比から

発見の歴史
地勢
鉱山の権益
鉱山遺跡としての位置づけ
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発見の歴史


 石見銀山の発見は古く、以下のような言い伝えがあるという。

 第95代の花園天皇の時代(1308〜1317)、周防の大内弘幸が北辰星の託宣で仙山に銀の出ることを知る。
 
 大永年中、博多の商人・神谷寿亭が銅を買うため出雲の鷺銅山へ赴く途中、日本海沖から山が光るのを見た。
  大永6年(1526)には銅山主・三嶋清右衛門が3人の技術者を伴って採掘し、鉱石を九州へ持ち帰った。
 
 天文2年(1533)、博多より宗丹・桂寿という2人の技術者を伴い、銀の製錬法を導入した。
 

 別子銅山では、時代は遅れて、元禄三年(1690)阿波生まれの渡り鉱夫・切上り長兵衛が天領であった別子で有望な「やけ」(銅鉱床の路頭)を発見し、備中吉岡銅山の住友家支配人・田向重右衛門に通報したといわれている。
 
 田向重右衛門は、手代・原田為右衛門と山留(技師)の治右衛門、炭焼人の松右衛門とともに別子に向かい別子銅山の鉱脈を確認した。
 


 別子銅山の「切上り長兵衛」という人物の存在については疑義が残っているが、石見銀山の「山が光る」というのも信じがたい所がある。
 
 しかし、当時の鉱山の専門家が赴き、その価値を認めたという所には共通点が見いだされる。
 
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地勢


 石見銀山は、比較的人里近くにある。
 現在は当時より廃れたとはいえ、人が居住できるほどの平地があり、当時の建物などが保存されている。
 銀山のある所も山奥というものでは無く、初期に見られたという自然銀の発見も容易であったろうと思う。
 

  別子銅山の旧別子は、現在では誰も居住していない。
 殆どが山の斜面という土地に当時の労働者が居住していた。
 このような状況のため、採鉱場所の変遷により、旧別子は廃れ、人々が生活した街は森の中に埋まっていった。

 
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鉱山の権益


 石見銀山は、戦国時代から、銀という経済的に価値の高い鉱山であったことから激しい領有争いが続いた。
 江戸時代となっても、幕府の直轄地として、代官所が設けられ、厳重に管理されていた。
 その後、領有権は同和鉱業に託されたが、鉱脈が枯渇して廃山となった。
 

 別子銅山は江戸時代の安定した時期に発見されたため、領有についての大きな争いは無かった。
 強いて挙げれば、西条藩の立川銅山との境界紛争で元禄8年(1695)に大和間符(別子)と大黒間符(立川)が抜き合い境界紛争となったが、幕府も調停に働き、宝歴12年(1762)には立川銅山を併合した大別子として、住友が一括して経営するようになった。
 経営は江戸時代から昭和にかけて連続して住友に任され、幕府や政府からの強い統制は無かった。
 
 別子銅山の休山は昭和48年(1973)最後の筏津坑の閉山によるが、その後も住友が管理している。
 別子銅山については鉱石の採掘は行われていないが、別子事業所は現在も続けて操業されているため、閉山では無く休山と位置づけられている。

 
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鉱山遺跡としての位置づけ


 石見銀山は。江戸時代でその使命を終えた鉱山であるが当時の面影を残している。
 江戸時代の鉱山遺跡として貴重なものであり、人力での過酷な労働により鉱石が掘られていた時代を伝えるものである。また、幕府による直轄管理の体制跡も残されている。
 
 2005年7月15日、文化庁は石見銀山遺跡ユネスコの世界遺産に推薦することを決定した。
 2006年に「国際記念物遺跡会議」の現地調査を受け、2007年のユネスコ世界遺産委員会で審議される段取りとのこと。
 
 
 2007年6月28日に、「石見銀山遺跡とその文化的景観」が世界遺産(文化遺産)に登録されたとのニュースが報じられた。
 2007年5月には、国際記念物遺跡会議 (ICOMOS)から登録延期の勧告がでていたが、ニュージーランドで開催された世界遺産委員会の審議により、世界遺産としての登録が満場一致で正式に決定された。
 日本の世界遺産登録としては14件目、産業遺跡としては日本国内初の登録とのこと。
 
 

 別子銅山も江戸時代の手掘りから始まったが、明治・大正・昭和と引き継がれて採掘が行われ、その間の技術の変遷の跡を辿ることができる。
 特に、明治期の発展はめざましく、和式の製錬から洋式製錬を取り入れ、輸送手段も山奥に鉄道を敷設するなど、先駆的な技術導入がなされ、日本の近代化を推し進めた。
 
 近代化産業遺産としての価値は高く、石見銀山とならぶ鉱山遺跡であると考えられる。

 
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