東人の新居浜生活あかがね探訪石見銀山石見銀山(4)

龍源寺間歩(入口)

   高橋家の建物を過ぎた辺りで、ようやく石見銀山の観光坑道である龍源寺間歩にたどり着いた。
 龍源寺間歩は古い坑道と、裏側に抜ける坑道を新設してつないで通り抜けできるようになっている。
    
 
<入場時間>
 9:00〜17:00(3/21〜11/23)
 9:00〜16:00(11/24〜3/20) 
 (第1,3月曜日、年末年始 休)
 
<入場料>
 大人400円 小人200円      


 入場チケット裏面より
国指定史跡「石見銀山龍源寺間歩」について

 龍源寺間歩は正徳5年(1715年)に開発され、石見銀山では大久保間歩に次ぐ大坑道として良質の銀鉱石が昭和18年(1943年)までの228年間掘り続けられました。
 江戸時代の開掘の長さは約600mに及んでおり、坑道の高さは1.6m〜2.1m、幅は0.9m〜1.5mあり、ノミで掘った跡が当時のままの状態で全体に残っています。
 昭和44年(1969年)には他の銀山遺跡13ヶ所とともに「石見銀山遺跡」として国指定史跡(文化財)に指定されました。
 
 パンフレットより
間歩通り抜けのご案内

 
 龍源寺間歩は正徳5年(1715年)の開発で、他に永久、大久保、新切、新横相間歩とともに代官所の直営で「五か山」と呼ばれていました。
 江戸時代(近世期)の開掘の長さは600mに及んでおり、石見銀山では大久保間歩に次いでの大坑道です。良質の銀鉱石が多く掘り出されました。
 この時代に間歩の坑口前に四ツ留役所が置かれていました。
 坑口に向かって右側には役人の詰所があり、左側には鏈置場(鉱石を置く小屋)がありました。詰め所には山方掛(係)3人、同心1人、山附などの役人が詰めていて、坑内作業の監督や夜は山方掛一人が宿直して見張りは厳重でした。
 山(間歩)を閉じたのは昭和18年(1943年)と言われ、実に228年間も間歩の開発が行われました。
 昭和44年(1969年)4月14日には他の銀山遺跡13ヶ所とともに「石見銀山遺跡」として国指定史跡(文化財)に指定されました。
 公開する坑道は江戸時代に開発された間歩156.7m(うち国指定史跡の範囲が坑口から20mまで)と栃畑谷へ通り抜けられる新坑道116.4mです。
 江戸時代の坑道は高さは1.6m〜2.1mで、幅は0.9m〜1.5mあり、ノミで掘った跡が当時のままの状態で全体に残っています。また、156.7mまでの坑道にはひ押し坑(鉱脈に沿って掘り進んだ穴)が左右の壁面から20数坑あり、坑口から85m地点には排水のための垂直に掘った竪坑(100m位)を見ることができます。
 栃畑谷の新坑道は龍源寺坑道158.7m地点から左へ鍵状に上り斜坑で出られますが、坑道の右壁には「石見銀山絵巻」(県指定文化財・古文書)を電照板で表して展示しており、あるきながら当時の坑内の様子が楽しめます。栃畑谷は室町時代から江戸時代初めに開発された屋敷跡や社寺、間歩などが散見され、石見銀山の歴史を目の当たりに見ることができます。
 
 

龍源寺間歩

 江戸中期以後に開発された間歩(坑道)で、「御直山」と呼ばれた代官所直営の創業地にあった坑道で、「御直山」の中でも銀山を代表する「五か山」の一つです。
 坑口の横には番所(管理小屋)を設け、四ツ留と呼ぶ坑木を組み合わせて坑口としています。坑道は、ほぼ水平に約600m掘り進んでおり、高さ1.6〜2m、幅0.9〜1.5m、採掘と同時に鉱石運搬の幹線坑道としても使ったようです。内部の岩質は角礫凝灰岩、坑道の壁面や天井にはのみ跡が残り、鉱脈を追って掘り進んだ小さな坑道(ひ押し坑)や上下方向に延びる斜坑を見ることができます。排水用の坑道でもあった下の「永久坑」へ降りる垂直の竪坑も残っています。
 坑道は入り口から水平に約630m続いており、そのうち現在公開している坑道は、156mまでで、そこから新しく掘った116mの連絡通路で栃畑谷へ通り抜けるようになっています。床面の高さは入坑しやすいように一部で掘り下げたところもあります。

 ※順路は一方通行です。
  坑道内を通ってこの場所には戻れません。
  坑道内は暗く、天井が低い部分や水滴が落ちるところもあります。
  足下に注意しながら観覧して下さい。
  坑内は禁煙です。
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龍源寺間歩(坑内)

  間歩の中は、楽に立って歩けるほどの広さであり、所々に照明が設けられていた。
 
 途中から分岐した斜坑も多数あるが、こちらは狭い穴で、本当に人が通れたのかと疑いたくなるほどのものもあった。
 
 観光坑道の江戸時代の坑道はまだ続いているが、ここから先は通行禁止となっていた。
 奥の方はやや狭くなっているが、どこまで続いているかはわからない。


 この辺りに、「大森鉱山坑内実測平面図」と「大森鉱山坑内実測断面図」が掲げられていた。

 この二枚の図面は明治時代、石見銀山で操業した合名会社藤田組(本社大阪)が作成した永久坑道を中心とする坑道の実測図である。藤田組は明治20年(1887)から大正12年(1923)まで操業した。
 

 
 この地点より、90度方向を変えて斜め上方に続く新坑道となる。
 
 

 新坑道の出口付近には、「
石見銀山絵巻」の電照板が設けられていた。  

 この電照板は島根県指定文化財(古文書)「石見銀山絵巻二巻」のうち上巻から坑道内作業の様子を15枚の電照板に仕立てたものです。
 
 絵巻は江戸時代の後期に描かれたもので当時の銀山山内の様子や風俗を知る上で大変貴重な巻物です。
 
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龍源寺間歩(出口)

 龍源寺間歩観光坑道の出口は、栃畑谷という所に抜けるために新たに造られた坑口で、出口専用となっている。
 
 
 
 
 昔はこの坑道は無かった筈であるが、出口付近にも古い間歩が多数確認された。
 

石見銀山の鉱床

 鉱床は仙の山の山頂を境に東と西に、2つの異なる鉱床が存在する。東側の鉱床は、鉱染型鉱床の福石鉱床と、西側の浅熱正鉱脈型鉱床の永久鉱床がある。
 

 福石鉱床

 戦国時代に最初に開発されたのが福石鉱床である。
 初期の頃は地表に自然銀が露出していたと考えられている。
 自然銀・輝銀鉱・方鉛鉱・閃亜鉛鉱・菱鉄鉱・酸化鉄などの鉱物がある。
 この福石鉱床の開発が石見銀山の最盛期を生み出した。
  
永久鉱床

 福石鉱床の品位の低下により、江戸時代から開発された鉱床が、永久鉱床である。
 明治・大正にかけて本格的に藤田組により開発される。輝銀鉱・黄銅鉱・黄鉄鉱 方鉛鉱・閃亜鉛鉱などの鉱物がある。
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