国指定史跡「石見銀山龍源寺間歩」について
龍源寺間歩は正徳5年(1715年)に開発され、石見銀山では大久保間歩に次ぐ大坑道として良質の銀鉱石が昭和18年(1943年)までの228年間掘り続けられました。 江戸時代の開掘の長さは約600mに及んでおり、坑道の高さは1.6m〜2.1m、幅は0.9m〜1.5mあり、ノミで掘った跡が当時のままの状態で全体に残っています。 昭和44年(1969年)には他の銀山遺跡13ヶ所とともに「石見銀山遺跡」として国指定史跡(文化財)に指定されました。 |
龍源寺間歩は正徳5年(1715年)の開発で、他に永久、大久保、新切、新横相間歩とともに代官所の直営で「五か山」と呼ばれていました。 江戸時代(近世期)の開掘の長さは600mに及んでおり、石見銀山では大久保間歩に次いでの大坑道です。良質の銀鉱石が多く掘り出されました。 この時代に間歩の坑口前に四ツ留役所が置かれていました。 坑口に向かって右側には役人の詰所があり、左側には鏈置場(鉱石を置く小屋)がありました。詰め所には山方掛(係)3人、同心1人、山附などの役人が詰めていて、坑内作業の監督や夜は山方掛一人が宿直して見張りは厳重でした。 山(間歩)を閉じたのは昭和18年(1943年)と言われ、実に228年間も間歩の開発が行われました。 昭和44年(1969年)4月14日には他の銀山遺跡13ヶ所とともに「石見銀山遺跡」として国指定史跡(文化財)に指定されました。 公開する坑道は江戸時代に開発された間歩156.7m(うち国指定史跡の範囲が坑口から20mまで)と栃畑谷へ通り抜けられる新坑道116.4mです。 江戸時代の坑道は高さは1.6m〜2.1mで、幅は0.9m〜1.5mあり、ノミで掘った跡が当時のままの状態で全体に残っています。また、156.7mまでの坑道にはひ押し坑(鉱脈に沿って掘り進んだ穴)が左右の壁面から20数坑あり、坑口から85m地点には排水のための垂直に掘った竪坑(100m位)を見ることができます。 栃畑谷の新坑道は龍源寺坑道158.7m地点から左へ鍵状に上り斜坑で出られますが、坑道の右壁には「石見銀山絵巻」(県指定文化財・古文書)を電照板で表して展示しており、あるきながら当時の坑内の様子が楽しめます。栃畑谷は室町時代から江戸時代初めに開発された屋敷跡や社寺、間歩などが散見され、石見銀山の歴史を目の当たりに見ることができます。 |
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間歩の中は、楽に立って歩けるほどの広さであり、所々に照明が設けられていた。
途中から分岐した斜坑も多数あるが、こちらは狭い穴で、本当に人が通れたのかと疑いたくなるほどのものもあった。 |
この二枚の図面は明治時代、石見銀山で操業した合名会社藤田組(本社大阪)が作成した永久坑道を中心とする坑道の実測図である。藤田組は明治20年(1887)から大正12年(1923)まで操業した。 |
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龍源寺間歩観光坑道の出口は、栃畑谷という所に抜けるために新たに造られた坑口で、出口専用となっている。
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昔はこの坑道は無かった筈であるが、出口付近にも古い間歩が多数確認された。 |
鉱床は仙の山の山頂を境に東と西に、2つの異なる鉱床が存在する。東側の鉱床は、鉱染型鉱床の福石鉱床と、西側の浅熱正鉱脈型鉱床の永久鉱床がある。
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