東人の新居浜生活
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あかがね探訪
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石見銀山
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石見銀山(2)
観世音寺
大森の町並みの途中に岩山があり、上に昇る階段があった。
ここに観世音寺というお寺があった。
説明書きがあったが、文字が薄く、判読不明のところがあった。
赤い建物は仁王門とのこと。
本尊は聖観世音菩薩
羅漢寺の五百羅漢を造った僧はこの寺の住職であったとのこと。
などが書いてあった。
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郵便局
大森の町並みの中にある郵便局も町並みに合わせた造りの建物であった。
ここには、
日本一
長 〜 い局名
です
(集配局)
石見銀山
大森郵便局
と書いてあった。
長い名前の郵便局について調べてみると、
「NHK広島放送センタービル内郵便局」
というのがあり、こちらの方が長いと思うのだが・・・。
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羅漢寺
大森の町並みが終わった辺りから少し街道から離れたところに羅漢寺がある。
この寺は真言宗の寺であるが、川の対岸に石造五百羅漢坐像群がある。
崖を穿った3つの石窟より成り、中央窟には石造の釈迦三尊像、左窟には251体、右窟には250体の石造羅漢坐像が安置されている。
羅漢とは、仏道を修行した最高段階者のことであるが、銀山で亡くなった人々の霊と先祖の霊を供養するために、代官所同心中場定政の発願によって造像が始められたものとのこと。
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大久保石見守の墓
街道から少し離れた所に階段が見え、大久保石見守の墓という標識があった。
大久保石見守長安(1545〜1613)は、初代の石見銀山奉行に任じられ、斬新な鉱山経営によって石見銀山を空前の大繁栄に導いた人物という。
1603年に佐渡奉行、次いで伊豆金銀山奉行を兼ね”天下総代官”と言われた。
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山吹城城門
街道に沿ったお寺の前に「山吹城城門(西本寺)」と書かれていた。
山吹城とは、この近くの要害山山頂にあった城のことである。
山吹城は、天文2年(1533)、大内義興が大森の銀山を守るために築城したことに始まる。
その後、出雲の尼子常久の銀山攻略で山吹城は尼子氏の領有となり、さらに永禄5年(1562)には毛利元就が攻め込んで毛利氏の手に落ちた。
山吹城解体後、四門のうち追手門が龍昌寺の門として改造され、後に龍昌寺から西本寺(さいほんじ)に移転されて現在に至っているとのこと。
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豊栄神社
神社の前に、「市指定史跡 豊栄神社境内」と書かれた説明板があった。
豊栄神社(とよさかじんじゃ)は慶応3年(1867年)までは洞春山長安寺という曹洞宗の寺であった。
永禄4年(1561年)に山吹城内に毛利元就が自分の木像を安置し、元亀2年(1571年)には長安寺を建立し木像を移したと伝えられている。
時は下って慶応2年(1866年)、第2次長州戦争が起こり、毛利氏を藩主とする長州藩の隊士たちが石見に進入し、長安寺に毛利元就の木像が神像として祀られていたのに驚いたという。
長州軍の隊士たちは、翌慶応3年に霊社の造営を行い、このときに寄付をした隊士168人の名が唐獅子や灯ろうなどの石造物に記されている。
維新後の明治3年(1871年)に長安寺の名は豊栄神社となった。
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