東人の新居浜生活
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石見銀山
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石見銀山(3)
石見銀山の大盛
石見銀山の間歩の跡が見え始める辺りに、「石見銀山の大盛」という説明板があった。
石見銀山の大盛
銀山が最も盛んであったのは、室町時代は大永から天文にかけての30年間で、江戸時代は慶長から寛永にかけての40年間です。
この頃の産銀量は年産5000貫(18.7トン)位と推測され、間歩(坑道)の数は279坑もありました。しかし、江戸中期からは次第に衰退しました。
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新切間歩
山道を進んでいくと、「新切間歩」という標識が見えた。
新切間歩(しんきりまぶ)は、正徳3年(1713年)、最初は水抜き抗として掘られた坑道とのこと。
立ち入り禁止の柵が設けられているが、小さい穴であった。
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福神山間歩
道の山側に複数の穴が開いているところがあり、それぞれの穴に間歩番号がついていた。
少し大きいものもあるが、多くはウサギの巣穴のような小さなものであった。
ここに、「史跡 石見銀山遺跡 福神山間歩」の表示と説明板が設置されていた。
福神山間歩
この間歩(坑道)は、採掘にあたった山師個人が経営した「自分山」のものですが、一時期、代官川崎市之進(1767〜78)のころには、代官所直営の「御直山」の坑道になったこともありました。「御直山」は天保15年(1844)には23か所まで増えますが、「自分山」は、享保14年(1730)に55か所もあったものが、天保15年には9か所となってしまいます。
石見銀山には、主な鉱脈が32本あったと伝えられており、そこから岩盤の亀裂に沿って30cm前後の幅で鉱石を含んだ支脈が延びていました。
この間歩は坑口が3か所あって、上段の坑は空気抜き坑、下段の2坑は中でつながり、説明板のある道路の下 2m ほどのところを通って銀山川の下をくぐり、後ろにそびえる銀山の最高地点「仙ノ山」の方向に掘り進んだと伝えられ、「仙ノ山」の逆方向に向かって坑口が開いている珍しい間歩です。
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高橋家
大森の街では古い家並みが見られたが、山の奥の方に入るに従って家が見られなくなった。そこに、古い屋敷が現れた。
これは、「石見銀山御料銀山町年寄山組頭遺宅 高橋家」であり、「山組頭」とは鉱山の取締役で、坑夫の人事や物資の購入など銀山の稼方全般の諸事項を監督する役目をもっていた。
「山組頭」は、山師の中から2〜3名任命される役職であるが、山組頭の遺宅としては唯一のものとして県指定文化財となっている。
高橋家は、代々銀山の町年寄、山組頭など、山方・町方の役人を勤めた家で、付属建物では酒造なども行なっていたという。また、屋敷の中には茶室も設けられているとのこと。
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