この説明板の左手、少し高くなった場所に鉱山の神である金山彦命を祀る佐毘売山神社があります。参道から佐毘売山神社に向かって左側の谷が出土谷、右側の谷が昆布山谷で、現在地を含めて、龍源寺間歩出口前の川に沿ったこの谷一帯が栃畑谷です。どの谷も、金山開発にともなって造成した平坦地が階段状に連なり、石垣や井戸、間歩(坑道)が見つかっています。 栃畑谷の発掘調査ではじめて製錬遺構が発見されたのが現在地です。 16世紀中ごろの遺構のほかにも江戸時代の文献に「三尺」とある灰吹炉や明治時代の藤田組に関連する建物跡も見つかっています。 文化13年(1816)の「銀山日記」には「長崎より唐人なりと来たり住す、朽多の頭に唐人屋敷、唐人橋という名あり」とあり、近くに小字「朽多」と「唐人橋」の名が残っており、唐(=韓、朝鮮半島)からの技術導入をこの地区は伝えています。 現存しませんが、古図などによると、神宮寺、妙像寺、妙本寺、蓮教寺、長楽寺、長福寺、虎岸寺、西福寺など多くの寺院もありました。 昆布山谷は水上町三久須へ抜ける街道があり、一帯には寺跡、集落跡だけでなく、数多くの間歩が残っています。特に「五か山」の一つで、代官所直営の「御直山」である新横相間歩がある谷として知られています。 |
徳川幕府が崩壊し、明治時代になると、石見銀山では、一部の既存の間歩(坑道)を利用した地元の人たちによる小規模な採鉱がかろうじて続いていましたが、本格的な銀生産の再開は、明治19年(1886)に萩出身の藤田伝三郎たちが起業した大阪の藤田組(現在の同和鉱業株式会社の前身)による採掘権(借区権)の入手を待ちます。 藤田組は、仙ノ山の南側の本谷地区の福石鉱床の金銀含有率と量に着目し、それによる銀生産を計画、明治27年(1894)に武田恭作氏(当時東京帝国大学冶金学科学生)の設計による近代的な銀の製錬所の建設を開始し、20万円の巨費を投じて翌年に完成、4月から操業を開始しました。 この精錬所には、写真のような施設群があり、福石鉱床で採掘した原料の鉱石は、新たに掘削した金生坑と拡張した既存の蔵之丞間歩を通って精錬所の最上段までトロッコで運んでいた状況をうかがい知ることができます。 鉱石の品質が予想より悪く、また設備の銀の製錬能力も充分でなかったことから不採算となり、明治29年10月に、開始からわずか1年半で操業を停止しました。 その後、藤田組は柑子谷に永久精錬所を新たに建設して、銅生産を中心に大正12年(1923)まで操業しました。 |
銀山では鉱山の発展を祈願する場所として佐毘売山神社と共に龍昌寺と観世音寺(大森町)が指定され、その石碑が手前の左側にあります。 石碑に向かって左側の面に「嘉永2年」(1849)の銘があり、大盛祈願の大修法がこの年に行われたようです。 いつから祈願寺となったのか不明ですが、祈祷は毎年正月20日の大般若経転読をもって行われていました。 この場所から右に続く道を上がって行くと、祈願道場に指定された龍昌寺があります。 龍昌寺は奉行代官墓所ともなり、以下の墓所が境内に存在しています。 第28代代官 浅岡彦四郎胤直墓所 (石塔1基 安政2年円建在銘、玉垣、石灯籠1対) 第31代代官 川崎平右衛門定孝墓所 (石塔1基 明和4年在銘、玉垣、石灯籠4基) 第32代代官 川崎市之進定盈墓所 (石塔1基 明和6年在銘) 他に宝篋印塔2基が石窟内に置かれ、左側の1基に「于時元和三年丁巳八月」と銘があります。(以上県指定文化財) |