滝の宮切りぬきタヌキ
別子銅山の鉱石を鉄道で端出場から惣開まで運ぶため、滝神社(滝の宮町)の山の一部を切り開いて鉄路が作られた。
明治25年(1892)から、ドイツ・ミュンヘン・クラウス製の列車が、昭和25年(1950)まで走っていた。鉄路に沿って鉱水路が設けられ、歩道として利用していた。
ここを、滝の宮切りぬきといって、人通りの少ないさびしい場所であったが、新居浜から上部の中萩・角野へは最短の近道で、浜の魚屋も利用して、滝神社の一の鳥居前の老松(樹齢250年くらい)の元で休むことが多かった。
魚屋のおたたさんは、いばち(たらい)に魚を入れ、頭に戴いて商いにでる。ここのタヌキは、魚が大好物で、魚をねらって昼間から人をよく化かした。
ある日、おたたさんたちは、いばちを置いて小用に行きもどって見ると、いばちの魚が全部とられていた。
魚の売り残りがある日には、通りすがりの人に化けて「もしもしおたたさん、残りの魚をわたしにみんな売ってくれんかのうし。」と、声をかけて近づき、「もう籠払いじゃ安うしとこわい。」と、魚を渡す。「はいお銭を。」と、受け取り帰ってみると、財布の中は小石と柴の葉っぱであった。
こんどこそ化かされるものかと用心していても、やっぱり化かされたという。
また、切りぬきを南へ行くと、馬淵へでる。当時の農家は、牛馬を飼育し、博労が牛馬の仲介をしていた。馬淵は深い藪や林が続き、昼間でも追いはぎが出そうなところである。ある秋の夕暮れに、一人の博労が馬淵へ出向き、時雨にあって、農家の軒下で雨宿りをした。ちょうど前に牛小屋がある。商いになるウシかもしれんと、牛小屋の腰板にある節穴から、目を皿にして、覗きこんだ。「これはええウシじゃ、ええ商いになるぞ。」と、つぶやいた。
「おいはん、あんた、何しよるんで。」と、肩を叩かれた博労、吾に返ってみると、牛小屋と思ったのは、野ぜんち小屋の囲いの中に頭を突っこんで、ぶつぶつと独り言をいっていた。
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新居浜のむかしばなし
(平成元年2月「新居浜のむかしばなし」編集委員会編 新居浜市教育委員会 発行)より
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御茶屋 観音堂
五輪塔群
滝の宮公園
滝の宮公園の横の切り通し
滝神社
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