東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内鉱山鉄道鉱山鉄道跡(本線:滝の宮〜国道11号)


鉱山鉄道跡

(本線:滝の宮〜国道11号)


惣開    西原  新居浜駅
 ↑     ↑   ↑
  ← 星越 →→本線端出場  

↑鉱山鉄道跡(本線:星越〜滝の宮)からの続き↓


横水町付近 歩道の脇には菜の花畑が続いていた。
 

 
田村踏切り

 横水町の予讃線と住友鉄道が交差する少し北に「田村踏切り」というのがあった。
 住友鉄道が建設された頃、西松木に田村久五郎という人物が住んでいた。彼はなかなかの事業家であり、すぐれた人物であった。
 住友鉄道の建設に当たり、中村本田の「ど真中」をつぶされるということで、猛烈な反対運動が起こり収拾がつかないようになった。彼は地主に、この鉄道建設の重要性と便益を説いて回り、ついに円満な話し合いをつけたという。
 そのような功績からか、鉄道完成後、彼が例の踏切りに立って、ちょっと手を上げて「田村じゃー」というだけで、上り下りのどの列車も一時停止して彼を乗せていたといわれている。しかし、下り列車の場合は何人かの制動手がいて、制動ブレーキをかけながら下ってくるのでよいが、上り列車になるとたいへんで、国鉄(JR)を越えたとたんに土橋まで続く急坂を助走してきた勢いでいっきに駆け登っていくのが普通であるが、そのたいせつな助走の場所に踏切りがあり、いったん停車すると、あとはあの坂道を、
 「この坂せこ坂、この坂せこ坂」
 と、あえぎあえぎ登っていったもので、機関車がかわいそうで、ちょっとあとを押しってやりたいような気になることもあったとか。
 のんびりした話である。
 
新居浜のむかしばなし
(平成元年2月「新居浜のむかしばなし」編集委員会編 新居浜市教育委員会 発行)より

 
 2006年、市内の8箇所に産業遺産説明板が設けられた。
 予讃線の線路の見えるこの場所に、「別子鉱山鉄道下部線(下部鉄道)跡」の説明板が設置されていた。


 
下部鉄道跡と国鉄機関車(昭和41年、写真撮影:篠原文雄氏)

別子鉱山鉄道下部線(下部鉄道)跡
 
 海抜1300mの山向こうにある別子銅山の生命線は、運搬路であった。住友初代総理人広瀬宰平は、明治24年(1891)、近代化による産銅高急増に対応するため、別子鉱山鉄道の建設に着手、明治26年(1893)3月、惣開−端出場間10km余りの下部鉄道、同年8月、石ヶ山丈−角石原間5.5km余りの上部鉄道が完成、ドイツ国クラウス社製の蒸気機関車が走った(上部鉄道は明治44年(1911)廃止)。
 下部鉄道には、当初、新居浜(惣開)・土橋・山根・板之元・端出場の5駅を設置したが、板之元駅は、明治28年、山根精錬所とともに廃止、その後、黒石(明治38年)・滝ノ宮・原地・星越(大正14年-1925-)の各駅が増設された。
 昭和4年(1929)11月、鉱山専用鉄道から一般乗客も利用可能な地方鉄道となり、新居浜港線(昭和11年-1936)・新居浜駅連絡線(昭和17年-1942-)を増設したが、戦後バスの普及により鉱山専用鉄道に戻り、昭和48年(1973)の別子銅山閉山、昭和51年(1976)の台風による山崩れにより、翌年2月、84年の歴史に幕を閉じた。

 べっしこうざんてつどうかぶせん(かぶてつどう)あと
小学生用解説

 惣開と端出場を結ぶ鉄道。別子銅山の銅や働く人を運ぶための鉄道として、1893年3月から1977年2月までの84年間使われた。他に上部鉄道があったが、1911年に使われなくなった。
新居浜市
 



以前はJRの線路の下を抜けると舗装が無くなっていたが、その後整備されていた。
その先は、当時の盛り土が残っていた。 その後、盛り土はスロープとなり国道11号の高架橋に続く。

盛り土の鉄道跡地が続いていた。 

左の盛り土の上も舗装され歩道となっていた。
国道11号線の上を越える橋
橋の上は通行禁止になっていた
【注】国道11号線に架かっていた高架橋は、1999年に撤去されました。       
変わりゆく風景(2)参照

   
鉱山鉄道跡(本線:国道11号〜土橋)に続く↓


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