東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内滝の宮公園御茶屋 観音堂


御茶屋 観音堂


   滝の宮公園のトリム広場近くに、御茶屋観音堂がある。
 
 昔、この辺りには美味しい水が湧き出ていて、御茶屋があったそうである。
 
 この観音堂の弁財天境内には、小林一茶の句碑もある。

観音堂

御茶屋岩清水

新居浜のむかしばなし(平成元年2月「新居浜のむかしばなし」編集委員会編 新居浜市教育委員会 発行)より
 

 
御簾が上がるお茶屋の観音堂の話

 明治の初め、観音堂にとても頭のよい坊さんがおりました。お説教もじょうずなので、お参りに来る人が次々と増えてきました。
 そしてこの観音堂のご本尊様は秘仏で、とても御利益があるという評判が広がりました。
 またお坊さんのいうのには、「昔から、病は気からといわれているとおり、観音堂へお参りに行って、病気が治った治ったと人の前でいっていると、自然に病気が治るのですよ」とみんなにいいました。
 ですから病気の人も治った治ったといいふらしました。
 したがって観音堂へお参りに行った人はみんな治ったことになったのです。
 
 また観音堂ではおおぜい寄り集まって、お経を唱えていると、正面の御本尊様の前の御簾がじわりじわりと上がり、御本尊様の御姿が現れてきます。
 しばらくすると、また御簾が自然に下がります。当時は大評判となりました。
 
 病気になると、西の土居のお茶屋の観音堂へ行き、おがんでいると御簾が上がって御本尊様が現れる。そしてお願いをして、家に帰って病気が治った治った、といっておれば病気が必ず治る・・・・ということになり、毎日つぎからつぎへと聞いた人がお参りにきて大繁盛しました。
 また、御簾が上がるのは、浪珍という臨時にやとった小僧さんが、床の下で紐を引っぱっていたのだそうです。
 
 以上はお茶屋観音堂にまつわる話です。
 
 

帳閉る加勢もせずに旅寝とは
         
一茶(小林一茶)
     
 
 この句は、寛政7年(1795年)1月10日、俳匠小林一茶が讃岐から伊予松山への旅の途中、新居浜騎龍亭(東町米田屋彦三郎宅)に立ち寄った折りに、詠んだものです。
 その昔、商家では「帳祭」といって、正月11日に、その年に用いる諸帳簿を綴じて祝う習慣がありました。
 泊まった夜、米田屋では帳祭の準備で多忙でしたが、一茶は、明朝の早立ちの旅を考えて、不本意ながら手伝いもせずに早く床に就いたものと思われます。

【新居浜市広報1999年1月号より】

 

観音堂入り口の「御茶屋 おたぬき地蔵」

 
御茶屋おたぬき地蔵の由来

 むかしむかし一宮神社の小女郎狸の孫狸を村の若い衆が狸汁にして食べたところいろいろの災いがおこりました。
 それを沈めるためにこのお地蔵さんがたてられたそうです。
 
 

 
あずきあらいたぬき

 この狸は御茶屋で小豆を洗うような音をたてていました。
 
新居浜のむかしばなし(平成元年2月「新居浜のむかしばなし」編集委員会編 新居浜市教育委員会 発行)より
 

 
小女郎狸の曾孫狸を食べて祟られた話

 明治初めのお話です。百姓仕事もひまになった冬の初め、西の土居の若い衆がお茶屋谷へ毎日たきぎを採りに行っておりました。ところが木の枝に掛けていたおべんとうがよくなくなるのです。ある日みんなで相談して、今日は弁当泥棒をつかまえてやろうと、木の陰にかくれて待っておりますと一匹のタヌキが出てきました。そしておべんとうを取って逃げようとするところをひっ捕まえました。「このタヌキめ!!」と、みんなでかわるがわる棒でなぐっていると、とうとう死んでしまいました。すると誰かが「タヌキ汁にして今晩一杯飲もうや。」といいますと、一同は賛成してその晩タヌキ汁をつくり、お酒を飲んでドンッチャン騒ぎをしました。
  
 ところがそのあとにたいへんなことが起こりました。翌日タヌキ汁を食べた人はみんな病気になり、またその家にも不幸なことがつぎつぎと起き、西の土居中は大騒ぎとなりました。
 さっそくある所から霊能者を呼んできておがんでもらいました。すると霊能者は
 「我は一宮神社の小女郎狸の曾孫狸であるぞ、よくも我を殺して食べたな、お前たちの家には七代祟ってやるから覚えておれ!!」
 と大声でいうのです。
 みんなすっかり驚いて恐ろしくなり、「どんな償いでもするからどうかお許しください。」と、あやまりました。そしてお寺の坊さんにお願いして狸の供養を丁重にしました。それからみんな病気もよくなりました。
 
 この話は西の土居町にあったほんとうの話です。
 

  


五輪塔群


   
御茶屋 観音堂から、鉱山鉄道跡の遊歩道を滝の宮大池方面に行くと、市指定史跡 「五輪塔群」が見えてくる。

 史跡 五輪塔群 
 昭和40年(1965)6月3日 市指定

 
 五輪塔というのは、大日如来を象徴的に表現したものである。最初は、成仏を祈願したものであったが、追々と死者の供養を願って菩塔としても造られるようになった。
 当地の五輪塔群は、材質も凝灰岩、砂岩、花崗岩等があり、また梵字のあるものとないものがあり歴史的な時代の変化が偲ばれる。
 金子氏累代の墓石群と推定されているが、石材の運搬経路及び梵字の存在(真言宗との関係が考えられる)は近世にさかのぼる歴史的事情を物語っているのではなかろうか。
 これらは、昭和20年代に大平熊伊曽・上田勘平 両氏によって再掘されたものである。
        新居浜市教育委員会

   

滝の宮公園

新居浜市内