東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内寺院


新居浜の寺院



     

このページは、大島の吉祥寺、中島住職より送られた「新居浜市史」(昭和55年刊)の資料を元に作成しました。

【仏国山瑞應寺

角野山根町

 曹洞宗に属し、釈迦如来を本尊とし、文安5年生子山城主松木越智景村が一寺を建立し、関東より月担和尚を招いて、仏国山瑞応寺と名づけた。
 天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国征伐の際、その臣小早川隆景の攻略にあい、生子山城は落城し、城主松木三河守安村は戦死し、当寺もその時戦火にあい、伽藍は悉く灰燼と化し、その後万治3 年(1660年)に当地の庄屋河端、神野両氏の奔走努力により、分外和尚を迎えて再興し、広鳥県徳雲寺の九世白翁禅師を迎えて開山し、完全に再建された。
 その後、文政2年に焼失したが、天保元年(1830年)に庫裡と梵鐘が造られ、弘化4年(1847年)に本堂と僧堂が、安政三年(1856年)山門と中門、廻廊等が完成され、更に明治30年(1898年)には専門僧堂を開設して、禅門修行の道場とし、学僧の参集や一般参禅者が多くなり、二六世代に宗門最高の別格に列し、二七世代に千里亭(方丈、応接間)を新築し、二八世代に本堂を銅板葺とし、開山堂を増築、二九世代に学校法人ひかり幼稚園を開設、また更に僧堂を改築して内容の整備充実を見るに至った。
 また当寺境内花尾山麓には仏法寺守護伽藍鎮守金比羅宮が鎮座し、その社殿に昭和23年秋万国英霊平和記念として300貫の大梵鐘を鋳造して吊されているが、山野にこだまし、広く近隣に響き渡り、花尾山を中心として原始林の如く茂る数々の古木と、参道の松杉、桧等の老木、松風幽鳥の声は、鐘鼓の梵音に和して、悠遠なる歴史を物語り、憩いの場となっている。  また樹齢800年と推定される境内の老銀杏樹は幾多の伝説を秘め、昭和31年2月天然記念物として指定を受けている。

正法寺

大生院

 応神天皇の御代、秦の始皇帝三世、孝武王の裔、融通王が秦の遺民127県の民を率いて百済を経て、我が国に帰化したが、天皇は之を大和朝津間腋上の地に置き、後更に山城の太秦の地に置いたが、仁徳天皇の御代これを諸国に分置して、蚕を養い、絹布を織らしめた。その時、大生院の地に、多くの秦氏が来住し、この地の豪族となって発展した。この地で飛躍的発展をとげた秦氏は、奈良朝末期から平安初期にかけて大生院の地に巨刹正法寺を創建して、宗教的面にも大いに活躍した。
 正法寺は当時七堂伽藍を有する大寺院で、県内屈指の巨刹であった。昭和5年(1930年)7月、附近の田圃の畔から蓮華紋巴瓦唐草瓦及び泥塔30数個を発見したが、泥塔は我が伊予において初めての発見である。ここから発見された瓦の種類には、単弁式蓮華紋巴瓦二種、宝相花紋巴瓦一種、忍冬唐草紋唐草瓦一種、宝相花紋唐草瓦一種等があって、当時の有様を物語っている。
 またこの寺は、一宮神社に生まれた上仙が開基したものとも伝えられている。

【西明山慶正寺】

西原(現在、一宮町)

 曹洞宗に属し釈迦牟尼如来を本尊とし、阿弥陀如来と地蔵菩薩を脇仏としている。文化10年3月、地蔵尊を本尊として創立、明治25年更に広島県沼隈郡青島村釈迦如来の尊像を遷し、西明寺と呼んでいたが、昭和13年(1938年)2月3日愛媛県喜多郡大川村蔵川の慶正寺を遷して以後西明山慶正寺と呼ぶに至った。
 当寺は旧新居浜町内に残された唯一の寺院であったので、いつまでも立派な寺院として町の風格を添えたいとの声が高まり、昭和37年(1962年)10月新築再建され、同38年(1963年)11月に落成式をあげ、面目を一変した現在の近代的寺院に風がわりした。
 現在同寺院では、副業として青年学級を開設し、女子の花嫁学校として、料理教室、その他、婦道の研修の場となっている。

【正法山慈眼寺

西之土居

 曹洞宗に属し、聖観音菩薩を本尊とし、元和4年金子城主歴代の菩提を弔うため創設した。金子城主は武蔵国入間郡金子郷の地頭職からこの地の地頭職となり、現在の慈眼寺の処に館を建て、金子山頂に小城を築いて、この地方を支配していた豪族であったが、天正13年7月金子備後守元宅公の時、小早用隆景の攻めに合い敗れ、野々市原で討死したのであるが、境内山林中に金子山古墳があり、金子備後守の墓所も本堂左手の石段を登ったところにある。

【蘆原山宝寿院
円福寺】

新須賀

   真言宗に属し、薬師如来、地蔵菩薩の二仏を本尊としている。持統天皇の御代、行基この地を訪れ、二仏を刻んでこれを祀り、寺を創設したといわれ、また後空海が伊予巡歴の際当寺に詣で、弁財天並びに15童子の像を安置したと伝えられている。
 天慶4年(941年)小野好古、源経基等が藤原純友討伐に際し、当寺に戦勝を祈願し、その霊現に奉謝して、伽藍を改築し、荘園を献じた。
 その後、元暦3年源頼朝平家迫討のため、伊予河野氏を代参させて戦勝を祈願せしめ、戦後太刀一振を奉納した。その後天正13年の役の兵火にかかり、更に元治元年には火災にかかり、現在の本堂は慶応元年(1865)に再建され、庫裡は、昭和8年(1933年)に改築されたものである。
 また円福寺は大正13年(1924年)迄、宇高の東北方に当る寺田と呼ぶ地にあったが、天正陣に際し小早川隆景のために焼かれ、その後新須賀に移して再建したもので、その当時新居浜屈指の大寺院として栄え、七堂伽藍を有し、八幡神社の別当寺となっていた。

【如意山荘厳院
宗像寺

八雲町

 高野山真言宗に属し、薬師如来を本尊とし、仁明天皇の承和11年甲子(844年)、恵徳和尚の創建した古刹にして、後宗像神社の別当寺となり、神社とともに、相当の寺領を有し祈祷寺として滅罪のことを一切司らず、宗像神社の宮司とともに社務にも参画した。
 天正13年(1585年)7月、豊臣秀吉の四国攻めに際し、小早川の軍と戦い、敗れ兵大の災禍を蒙ったところの庄内祢宜の前真福寺を合併して、以後滅罪のことも司ることとなったが、元禄5年西条藩の命によって宗像神社の別当寺をやめることになった。その後文化2年(1805年)火災にかかり、庫裡、本堂等を焼失したが、西条加茂の人の協力により、現在の建物を再建したのであって、本尊は無事であった。

【真光寺】

中萩町中村

 曹洞宗に属し、釈迦如来を本尊として、孝徳天皇の代に創建された古刹である。天正13年(1585年)兵火にかかり、万治2年愚慶察及び大和尚の手に依って伽藍を再建した。禅堂、鐘楼、庫裡等いづれも完備して、禅刹として知られている。


 資料には、中萩町中村のお寺になっていたが、滝の宮公園の近くの西の土居町に在る、新しい大きなお寺が真光寺とのことで、移転されたのかと思う。

【法隆山西正寺】

田の上

 浄土真宗に属し、阿弥陀如来を本尊として、天正13年(1585年)7月小早川隆景のために敗れた宇高不留土居城主高橋丹後守光国の弟種明(高橋大炊介)は出家して玄亮と呼び、田の上に一寺を建立して住職となったが、当寺はその玄亮の開基したものである。現在寺内においてめぐみ保育園を経営している。

【正統山常楽院
明教寺】

松神子

 浄土真宗に属し、阿弥陀如来を本尊として、天文年間、江州の人佐々木光清の開基した寺院で、以来数百年間佐々木氏が住職を世襲して今日に及んでいる。

【医王山真明院
安養寺】

阿島

 真言宗に属し、薬師如来を本尊とし、空海が西国巡歴の途中で、この地護摩谷に鎮座している池王大神の神示を受け、阿島の山に住んで人々に危害を加える大蛇を退治するため、悪龍降伏の護摩会を奉修せられ、遂に悪龍を降伏せしめたと伝えられ、その時奇しくも霊水が湧出したので、これを加持水としたと伝えられている。
 この空海の聖跡に因して、阿島の地に創建されたのが、この寺である。

【鳴鐘山隆徳寺】

泉川鳴鐘

 古義真言宗に属し、不動明王を本尊とし、古くから浦戸神社の別当寺として神社とともに栄え、浦戸寺(浦渡寺とも書いた)として地方の人々に親しまれていた。明治43年(1910年)に及んで新居浜駅東北方の正光山に在った正光寺を合併して隆徳寺と改めた。

【浦島山観音院
明正寺

黒島

 聖観世音菩薩を本尊とし、神亀5年伊予の豪族越智氏によって創建された古刹で、後延喜式内社黒島神社の別当寺となった。
 創立以来西法寺と称していたが、寛永20年明正天皇の勅命に依り寺号を明正寺と改め近日に至っているが、当寺は天正13年の兵火にかかり、更に文化5年(1808年)2月4日の火災で、全焼したが、幸に本尊並びに古記録、寺宝等は悉く完全に持出し得て今尚保存されている。
 本尊の聖観世昔の像は、浦島太郎の面白い伝説が秘められ、また薬師如来の像は空海、毘沙門天の像は行基、地蔵寺の像は、京円仏師の作と伝えられており、いづれも技法の秀れた仏像である。また寺宝として左のものがある。
一、金胎両界曼茶羅
一、薬師曼荼羅
一、弥勒菩薩金銅仏
一、小川僧正筆弘法大師影像
一、地獄絵一巻
 小川僧正は承澄と呼び、比叡山の学僧で、忠快法印に師事し、又相模覚審大僧都に法曼院を受け、灌頂法を究めた人で画に巧みであった。その著に阿安ばく鈔二二八巻及び明匠略伝三巻がある。元久2年(1205年)より弘安5年(1282年)迄の人で、七八歳で世を去った。
 空海御影像は、鎌倉時代のもので、小川僧正50歳ごろの作といわれている。当寺には明正天皇(最後の女帝)の厨子入御位牌も保在されている。

【女乙山法泉寺】

垣生

 密教に属して、毘沙門天、弥勒善薩を本尊としている。天正年間に創始された寺院で、境内には神功皇后の伝説を秘めた椋の古木があり、鎮守社として右手の山頂に女乙神社があり、祭神は龍王と弁財天の二柱とされている。

【誓立山
願行寺

大島

 阿弥陀如来を本尊とし浄土宗に所属している。天正元年(1573年)の創立と伝えられ、また当寺には昔から幽霊に関する伝説があり、幽霊の片袖が伝説とともに今尚伝えられ寺宝とされており、また幽霊を画いた名幅がある。

【陽光山多聞院
吉祥寺

大島

 貞観年間(859年〜895年間)大島八幡神社の創立とともに創建され、後に八幡神社の神宮寺となった。
後安永9年(1780年)に及んで、桧尾山より毘沙門天王を迎えて、多門院吉祥寺と呼ぶようになった。

萩生寺】 

中萩町萩生

 真言宗に属し、皇山観音院南之坊と称し、聖観世音菩薩を本尊とし、萩生寺と呼んでいる。
 本尊は、仏師安阿弥陀快慶の作と伝えられ、秘仏とされている。建久年間(1190年〜298年間)中萩の治郎丸本田の地に創建されたが、天正13年(1585年)小早川隆景の兵火にかかり、慶長年間(1596年〜1614年間)元該法師の手に依りこの地に再建された。
 境内には鎌倉時代のものと推定される法きよう印塔の台石が残存していて、建久年間当寺が創建されたということを実証している。また境内に祀られた鎮守金毘羅宮は元禄年間、白堂大和尚の手によって創建されたものであると伝えられている。

【仏光山阿弥陀寺】

岸の下

 阿弥陀如来を本尊とし、北の坊と呼び、阿弥陀寺と呼んでいる。
 天正の役後、飯尾駿河守義雄が、この地に難を逃れて、金子氏並びに飯尾氏の善提寺として創建した寺である。

【神宮寺】

船木高祖
(現在移転・再建中)

 当神宮寺は高祖三島神社の別当寺として創建された古刹で、神社に特別深い関係を持っていたため、葬儀のことなど一切取扱わなかったので、檀家等はなかったが、特別に寺自体が、全盛期には100石に近い寺領を所有するなどで、豊かな寺であった。しかし、終戦後は農地法により、その寺領を失い、現在では昔の面影を留めない程荒廃している。

【大師堂】

立川

 別子ライン生子橋から右手に沿って立川の渓谷沿いの道を約400メートル程行った左手に石段があって、それを登った所に立川の大師堂がある。仏堂の裏手は奇岩を以って半島状に渓谷に突出、しかも美しい松の緑におおわれ景勝の地で、対岸は煙突山や生子山城の旧跡がある。

河内寺塔跡】

高木町

 高木町鎮座の白頭山河内寺は、市内大生院の正法寺とともに、県内屈指の古殺であり、仏教文化の華かな飛鳥時代から平安時代にかげて繁栄を遂げた寺院であった。
 境内には七堂伽藍を具備し、堂々たる五重の塔は天空にそそり連ち、その偉容を誇ったもので、今尚境内には、その礎石13個が歴然として遣されている。
 奈良時代、新居浜地方は奈良東大寺の領地となり、又大和法隆寺の領地となっていたため、庄園所領者としてのこれら有力寺院の出先きの寺院として勢力を得て大いに栄えていたことが推察される。
 


   

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