東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内吉祥寺


吉祥寺


 
 吉祥寺(きっしょうじ)は新居浜の大島にある2つのお寺の一つ。
 正式には「陽向山多聞院吉祥寺」という、真言宗善通寺派のお寺である。
 貞観年間(859年〜895年間)大島八幡神社の創立とともに創建され、後に八幡神社の神宮寺となった。
 後安永9年(1780年)に及んで、桧尾山より毘沙門天王を迎えて、多門院吉祥寺と呼ぶようになった。

 このお寺のご住職は、このホームページの至る所でも登場する、あのお坊さんである。
 詳しくは吉祥寺のホームページへどうぞ。

吉祥寺は、細い路地の奥にある。

子安地蔵尊と薬師堂

 吉祥寺には、御本尊である毘沙門天・吉祥天・善膩師童子三尊像の外に、弘法大師座像、金剛界曼陀羅・胎蔵法曼陀羅、釈尊涅槃図、薬師如来・日光月光菩薩および薬師十二神将像などがある。
 また、境内には 子安地蔵尊 および 大力士石鎚島之助供養碑がある。
 
 石鎚島之助(別名白山新三郎)は新居群大島の生まれ、身長六尺四寸(194cm)体重49貫(184kg)と江戸時代(天保13年)の書「西条誌」に書かれています。
 吉祥寺の過去帳には「延享2年(1745)9月29日 泰往道白信士 石鎚島之助事」と記されているそうです。
 
 
新居浜のむかしばなし(平成元年2月「新居浜のむかしばなし」編集委員会編 新居浜市教育委員会 発行)より
 

 
石鎚島之助(大島島之助)

 昔、新居浜市の東部海上の大島の漁師の家に、一人の男の子が生まれた。その赤ちゃんは非常に大きな赤ちゃんでした。お家の人たちはこの男の子が生まれたことを大変喜んで、
 「島で一番大きく強くなるように。」
 と願って「島之助」という名をつけました。
 島之助は、すくすくと育って、八歳になった頃は普通の大人よりも大きいくらいになり、しかもたいへんな力持ちになりました。一五歳になった時には身長は2メートル30センチくらいになり体重は130キログラムにも達する大男になりました。その頃島之助はお家の手助けをして、海へ漁にでていましたが、舟を出す時も、舟を陸へ上げる時も、一人で軽々とし、力のいる帆柱を一人で起こして立てたり、倒したりしていました。その上重い碇を(約400キログラムもある)一人で投げ込んだり、引き上げたりして島中の人たちを驚かしていました。そのうちにも、身体が年と共にますます大きくなって、大人になった時身長は2メートル50をはるかに越し、体重も180キログラムに達し、それはそれはみごとな身体になりました。島の人たちは島之助を見てはことごとに、
 「そのよい身体で漁師などするのはおしい、お角力さんになったらよいのに。」
 とすすめました。そのすすめに心が動いて島之助は「石鎚島之助」と四股名を名のり角力取りになりました。身体は大きいし力もあるので誰と組んでも負け知らずでだんだん出世しました。
 その頃力士として有名だった「兜山権太右衛門」と角力を取り、権太右衛門を投げ殺してしまいました。それで一層有名になり、島之助は力では日本一だといわれるようになりました。
 そのことが紀州の殿さまの耳に入り、ぜひにというご所望で、紀州公お抱えの力士になりました。がふとしたことで紀州の殿さまのご機嫌を損ね、おひまをもらて島に帰りました。
 島に帰った島之助は島の若者に角力を教え、かたわら百姓をしてのんびりくらしました。 
 ある時、黒島のすぐ南にきれいな小さな島が二つあるがあの島は少し西にあったらなおよいのにという人があった。それを耳にした島之助は、二つの島を天秤棒でかついで西の方へあるき出したが、あまり重いのでひと休みした。ひと休みする間に島に根が生えて動かなくなってしまった。その二つの島は今の「大久貢と小久貢」になった、と。
  久貢山には大ネコがいて浜子のべんとうをよく盗ったといいます。
 

【関連URL】
       
吉祥寺のホームページ

   
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