東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内市内散策市内散策(2)

若宮神社

   若宮小学校の隣を流れる王子川に沿って北に進むと、新田自治会館の隣に若宮神社がある。
 昔は別の所に祀られていたが、その後に現在地に遷されたという。
 小さな祠の神社であるが、南朝の忠臣である楠正成(1294〜1336年)を祀った神社である。
 
 昔は王子町や星越町の山から北側は海であったが、江戸時代頃から干拓や埋立てにより現在の平野部が形成された。
 新田地区を開拓した人が塩崎利右衛門であり、楠正成の末裔といわれている。
 
 楠正成から7代目(8代目?)にあたる正国が、塩崎氏と称して西条に落ち着いたのが塩崎氏の始まりで、正国から4代目の正浪は天正の陣に参加して討死した。
 新田地区を開拓した塩崎利右衛門は、その正浪の子にあたるという。
 
 塩崎利右衛門が西条から遷ってきた時に西条の神戸地区にある橘新宮から氏神である楠神社の分神を移して祀ったのがこの神社で、分神して新しく祀る神様を若宮ということより、若宮神社といわれている。

 楠正成と因縁が深いことより、新田町の太鼓台は楠正成と楠正行が描かれた上幕で飾られ、太鼓台の担夫のハッピにも楠正成の紋である「菊水」が描かれている。

 
この若宮神社には、一宮神社に棲んでいた小女郎狸の妹「お六狸」の話が伝えられている。
 
 
 四国には有名な狸が三匹います。一宮神社に祀られている小女郎狸と壬生川の喜左右衛門狸、屋島の禿狸が三兄妹として、伊予狸族の名門で、小女郎狸は昔から一番楠に棲んで地域の人達に親しまれています。
 
 その小女郎狸の妹でお六狸というのが、同じ一番楠に棲んでいました。
 このお六狸は丁度開拓の始まった新田地区に、毎晩毎晩いそいそと訪ねていったといわれています。
 そしてお六狸さんは、ある晩新田を訪ねてある裕福な家の前まで来ると、そこでくるりと一回転したかと思うと、かわいらしい小僧に化け、すたすたと門をくぐって、屋敷の隅にある若宮さんをお祭りしている祠の前にくると、お供えをしている徳利に入ったお酒と、饅頭を畳一畳はあるとおもわれる狸の玉袋の中に入れ、急いで一宮神社の一番楠の樹へ向かっていそいそ帰っていきました。
 そこには小女郎狸が今か今かと待っていました。
 お六狸は誇らしげに持ち帰ったお供えを、小女郎狸に差し出しました。
 
 こうして毎晩、毎晩 新田地区の若宮さんのお供え物を取りに来ていました。
 此の様子を見ていた家の主は、ああ今日もお六狸さんがきてくれてありがたいことだ、手を合わせて拝んでいました。
 
 これはまだ開拓間もない新田地区では、作物が充分に取れず人手も足りず、狸さんの力を借りていたからです。
 新田地区の人達が安心して暮らせるためにも、大切なことで地域のみんなで大事に扱いました。
 こうして代々この習わしは、子供から孫へと受け継がれ、明治の終わり頃迄伝えられました。
 
      若宮のふるさと誌 より
→戻る
  

風ヶ浦地蔵堂

   王子川の水門近く、土場雨水ポンプ場の隣に地蔵堂がある。
 2体のお地蔵様が祭られているが、元々は別の所に有ったものを、水門工事の際に移動したものらしい。
 
 

→戻る
  

お社日さん

   土場雨水ポンプ場の南東の角にお社日さんがある。
 ポンプ場の南東の角は、お社日さんを残すような形で敷地が区画されている。
 
 このお社日さんの縁起については不明。
 

→戻る
  

龍王神社

    住友化学愛媛工場前から東に進んで、王子川の水門手前の海側に龍王神社がある。
 この道は車では何度も通っていたが、龍王神社のあることには気がつかなかった。
 約70年前に、海上の安全祈願のため、住友化学に出入りする青野海運、田口海運、森実海運などの海運会社が共同で建立したものとのこと。
 

→戻る
  

新田 不動庵

   住友別子病院および泉幼稚園の裏側、黒岩墓地の入り口に不動庵がある。
 延宝2(1674)年の創立、寛延2年(1749) 2月10日に慈眼寺の末庵となったという。
 
 新四国八十八ヶ所の66番札所となっている。
 

→戻る
  

磯浦地蔵堂

    磯浦町の西寄り、カーコンビニ倶楽部(以前はガソリンスタンド)の隣に地蔵堂がある。
 「入山中地蔵尊」と書かれた幟がたてられている。
 
 地蔵堂には本尊と脇地蔵の2体が祀られている。
 縁起については不明であるが、脇地蔵には「明治10年」と刻字されているらしい。
 このお地蔵様は県道の南側にあったものを、県道の拡張工事などにより、現在の位置に遷されたようだ。
 
 新四国八十八ヶ所の65番札所となっている。
 

→戻る
  

西の谷 大山祇神社

 新居浜の西部、旧磯浦ドライビングスクールの向かい側の辺りを西の谷というが、ここに大山祇神社が祀られている。
 鳥居の奥の階段を登ると、ガラス戸のついた小さな建物があり、これがお社である。
 
 
 大三島の大山祇神社から祭神を迎えた神社は全国に多数あるが、厳密には「大山祇」という名前を使う場合には、大三島の大山祇神社の全ての祭神を迎えることになるらしい。
 そのために別子銅山鎮護の神社には、読み方は「おおやまずみ」で同じであるが「大山積神社」と別の字が使われている。
 
 この西の谷の大山祇神社は延宝2(1674)年の設立というが、祭神は不明とのこと。
 
→戻る
  
   

近郊の観光地/市内