東人の新居浜生活新居浜見聞録星越山田社宅


星越山田社宅


   近所の人から聞いた話であるが、ある時、品の良さそうなお婆さんが家の方を眺めていたそうだ。
 何だろうと思い声をかけたところ、そのお婆さんは、今は東京に住んでいるが60年前にその家に住んでいたのだそうだ。
 自分が住んでいた60年前の当時と全然変わっていないということで、懐かしく見ていたとのこと。

 60年間、変わらない地区が星越ということになるのか・・・?・。



 新居浜の都市形成をテーマに研究されている都市経済専攻の大学院生の方からいただいたメールで、新居浜の星越山田社宅に関する論文が出されていることを教わった。

 「鷲尾勘解治と新居浜・住友山田団地について」
 『日本建築学会計画系論文集 No.519』(1999.5)日本建築学会、pp.271〜278、砂本文彦(高知工科大学)
 A Study on Kageji Washio and "Sumitomo Yamada Danchi" in Niihama, J. Archit. Plann. Environ. Eng., AIJ, No.519, May., 1999

 また、鹿島出版会から2000年に発行された『近代日本の郊外住宅地』という単行本(ISBN4306072266 体裁 A5判・608 頁 本体8400円)の中で「住友山田団地/新居浜」(pp.457〜472)というタイトルで上記研究内容が収録されている。

上記、高知工科大学の砂本助手とも連絡をとり、論文の別刷りをいただいた。

 鷲尾勘解治(かげじ or かげはる)とは?・・・恥ずかしながら今まで聞いたことが無かった。
 調べてみると、昭和の初期の段階で、新居浜の将来計画を立てて実行した人物であった。その計画の一つとして、星越の山田社宅が作られたことを知った。
 

   →鷲尾勘解治の略歴

 以下、鷲尾勘解治について調べた結果の概要です。
 
 時代背景
 大正末期から昭和にかけては、別子銅山の収益が落ち、住友の経営の中での別子銅山の地位が下がったころであり、そのときに住友別子鉱山常務になったのが、鷲尾勘解治であった。

 新居浜後栄策
 鷲尾は別子銅山の先が短いことを知り「別子末期の経営」と題した演説でインフラ整備の必要性を訴えた。
 その具体策が「新居浜後栄策」というもので、道路や港の整備など、新居浜の都市計画を住友の資金で推進した。

 鷲尾の基本理念
  鷲尾には「住友は新居浜の町と別子銅山のおかげで大きくなった。ならばこの町のために何かしなければならない」という意識があった。

 事業計画
 1.住友の費用負担による新居浜築港と海面埋め立て
 2.住友別子鉱山葛@械課の独立(現 住友重機械工業
 3.鰹Z友肥料製造所の振興(現 住友化学
 4.住友の費用負担による昭和通りの建設と都市計画

 4.に関連して、先ず築いたのが昭和通りであった。その道路工事には、星越山を削った用土を用いた。

 山田社宅の建設
 また、都市計画の一つとして社宅の建設にも取り組んだ。
 現在は住友の社宅の並んでいる星越(山田)町や前田町は、かつては湿地帯であったが、鷲尾はこの湿地帯を埋め立て、住宅地を造った。
 山田社宅は平均100坪。当時としては画期的な高級住宅地だった。
 
 上記論文によると、山田社宅の特徴としては、
 1.風通しを良くするための、東西に長く、南北を開け放した家屋形状
 2.緑豊かな生け垣(カイズカイブキ、ツツジ、松、キンモクセイ)の設置による風通しの確保
 3.多様な屋根形式(切妻、寄棟、入母屋等)
 4.一戸建てと二戸建てが混在 
 などが挙げられる。
 
 社宅西側には、別子事業所長宅の大きな家や、外人社宅と呼ばれる外国人技術者のための洋館(現在は単身者寮)などもある。
 
 これら山田団地の建設に携わったのが住友別子鉱山鞄y木課であったが、土木課は後に独立し、住友建設鰍ニなった。  
 昭和元年に、銅山中腹の東平から星越に選鉱場を移転させたのも鷲尾であった。別子銅山の終焉の後は、買鉱製錬となることを見越しての移転であった。

 星越の選鉱場の前には1893年に敷設された下部鉄道が通っていたが、星越選鉱場の建設と同時に星越駅が作られた。
 星越駅の駅舎は、選鉱場には背を向けた山田社宅の方向に向いている。
 従来、鉱山専用鉄道であった下部鉄道は、1929年(昭和4年)に地方鉄道に移行され一般利用のできる鉄道となった。星越駅も社宅住民の通勤手段としてつくられていたものと推察される。
 
 事業計画1.に関しては、新居浜築港にも乗り出し、臨海部に工場群を造る基盤を固めた。
 今の新居浜が工業都市となり得たのも、このインフラ整備の賜物と言えるだろう。

 昭和6年に昭和通りが完成する数ヶ月前に鷲尾は本社に呼び戻され、大量の資金を新居浜に投入したことの責任を問われて、最終的には辞表を出したという。
 
 
 鷲尾以後の新居浜  
 鷲尾が新居浜を去った後も、別子の経営者と新居浜市長が「新居浜後栄策」を引継ぎ、武徳殿や住友倶楽部(写真)、泉寿亭(現別子銅山記念図書館)を建て、別子鉱山鉄道を延線した。
 
 昭和14年の都市計画には、今の堺筋(楠中央通り)の拡幅工事(現在は6車線の道路)、平和通り、産業道路の建設も計画に含まれていた。これらの道路が、今現在、当時の計画の通りにできている。
 
 これらの工事では、鷲尾の提唱した「作務」という青年の勤労奉仕によるところが大きかったという。
 
参考にしたサイト(現在のリンク先は不明)
  
  愛媛新聞記事:末岡照啓・広瀬歴史記念館名誉館長の講演
    「新居浜の誕生PART2 工都の形成と未来への展望」(上)
    「新居浜の誕生PART2 工都の形成と未来への展望」(中)
    「新居浜の誕生PART2 工都の形成と未来への展望」(下)

 今の工業都市・新居浜の姿を造ったのは、鷲尾勘解治と昭和初期の新居浜の人達であった。
 その恩恵を今の新居浜の人達が授かっていることを知った。
 
 50年から100年先を見越した都市計画によって造られた町、それが新居浜であった。
 星越の山田社宅が60年間変わらないのも長期ビジョンで造られた社宅であるためだろう。
 建物は古くとも、贅沢なほどに広い敷地に建つ平屋建ての社宅は、住み易い家だと思う。
 
 
 別子銅山が閉山になったのは昭和48年。その50年ほど前に、銅山の資源枯渇を見越して、次の基盤造りに取りかかった鷲尾勘解治。
 地球規模での環境汚染や資源の枯渇が懸念されている現在、鷲尾勘解治の新居浜後栄策に学ぶべき所が多くあるのではないだろうか?。



 
広瀬公園 に保存されている共存橋・共栄橋 の橋柱

 共存橋・共栄橋の橋柱

 昭和初期、別子鉱業所支配人であった鷲尾勘解治は、別子鉱山の鉱脈もいつかは尽きると考え「地方後栄の策」を示した。

 昭和6年(1931)に鷲尾は昭和通りを建設するなど、地方の発展につながる諸事業を起こし、今日の新居浜市の基礎を築いた。

 共存橋・共栄橋は昭和通りにかかっていた橋で、命名した鷲尾支配人の思想を今に伝えるものである。  
現在の共存橋 現在の共栄橋

宗像神社に鷲尾勘解治の頌徳碑が有ります。
 
惣開小学校の表札は百寿の鷲尾勘解治が揮毫したものです。
 
 
元塚交差点近くに自彊舎記念館があります。