東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内共存・共栄橋


共存・共栄橋


 
 昭和通りの尻無川に架かる橋には「共栄橋」という名前がつけられている。
 共栄橋から少し西側、小さな水路に架かる橋は「共存橋」という名前である。
 これらの橋は、鷲尾勘解治の新居浜後栄策により、昭和通りが作られた際に、新居浜と住友が共存・共栄することを願って名づけられたものである。
 
共存橋 共栄橋



 2006年、市内の8箇所に産業遺産説明板が設けられた。
 元塚交差点に、共存橋・共栄橋の説明が設置されている。


 
昭和6年頃 手前の橋が共存橋、奥が共栄橋

共存橋・共栄橋
 
 昭和2年(1927)、別子銅山の最高責任者となった鷲尾勘解治は、鉱量調査を実施、銅山の鉱脈があとわずかで尽きるとの結果を得た。鷲尾は、別子銅山が約240年もの間経営することができたのは、地域社会の協力のお陰であり、たとえ銅山が無くなっても、地域社会が荒廃しないようにと、新居浜の後榮(繁栄)策を次のように提言した。
 @新居浜の港造りと、海岸の埋め立て。
 A埋め立て地に、銅山に代わる諸事業(化学・機械等)を興す。
 B都市計画を樹立し、幹線道路(昭和通り等)を整備する。
 鷲尾は、「企業は、利益追求が目的であるが、企業の利益だけに走ってはいけない。地域社会や労働者と共に繁栄しなければ、企業の繁栄も永続もありえない」と、企業と地域社会の「共存共栄」という理念を示した。
 鷲尾は、その理念を永久に語り伝えるため、昭和6年(1931)に竣工した昭和通りにかかる橋に「共存橋」「共栄橋」と名付けた。今もその理念は、二代目の橋柱によって語り継がれている。なお、初代の橋柱は、広瀬公園に移され、保存されている。

 きょうそんはし・きょうえいはし
小学生用解説

 1931年に完成した昭和通りにかけられた二つの橋。住友の各会社と地域社会が共に発展することを願って、鷲尾勘解治により名付けられた。名前のはいった最初の橋の柱は、現在、広瀬公園に保存されている。
新居浜市
 

   
 また、さらに西側の西原町の大丸跡地の近くには、「申孝橋」という橋がある。
 この名は、孟子の「申之、以孝悌之義」(コレヲ申バスニ、孝悌之義ヲモッテス)に由来するものだろうか?。
広瀬公園には、昔の共存橋・共栄橋の橋柱が保存されている

 共存橋・共栄橋の橋柱

 昭和初期、別子鉱業所支配人であった鷲尾勘解治は、別子鉱山の鉱脈もいつかは尽きると考え「地方後栄の策」を示した。

 昭和6年(1931)に鷲尾は昭和通りを建設するなど、地方の発展につながる諸事業を起こし、今日の新居浜市の基礎を築いた。

 共存橋・共栄橋は昭和通りにかかっていた橋で、命名した鷲尾支配人の思想を今に伝えるものである。
   
 共存橋・共栄橋の古い橋柱は、広瀬歴史記念館の南側(煉瓦塀側からの入り口)にも設置されていた。
 



 2008年、市内の10箇所に産業遺産説明板が設けられ、広瀬公園の桜広場の共存橋・共栄橋の橋柱の近くにも説明板が設置されている。
 


 
昭和6年頃の共栄橋

共存橋・共栄橋
 
 昭和2年(1927)、別子銅山の最高責任者となった鷲尾勘解治は、鉱量調査を実施、銅山の鉱脈があとわずかで尽きるとの結果を得た。鷲尾は、別子銅山が約240年もの間経営することができたのは、地域社会の協力のお陰であり、たとえ銅山が無くなっても、地域社会が荒廃しないようにと、新居浜の後榮(繁栄)策を次のように提言した。
 @新居浜の港造りと、海岸の埋め立て。
 A埋め立て地に、銅山に代わる諸事業(化学・機械等)を興す。
 B都市計画を樹立し、幹線道路(昭和通り等)を整備する。
 鷲尾は、「企業は、利益追求が目的であるが、企業の利益だけに走ってはいけない。地域社会や労働者と共に繁栄しなければ、企業の繁栄も永続もありえない」と、企業と地域社会の「共存共栄」という理念を示した。
 鷲尾は、その理念を永久に語り伝えるため、昭和6年(1931)に竣工した昭和通りにかかる橋に「共存橋」「共栄橋」と名付けた。橋の改修で初代の橋柱は、ここに移されて保存されている。

 きょうそんはし・きょうえいはし
小学生用解説

 1931年に完成した昭和通りにかけられた二つの橋。住友の各会社と地域社会が共に発展することを願って、鷲尾勘解治により名付けられた。名前のはいった最初の橋の柱は、ここに残っている。
新居浜市
 


   
近郊の観光地/市内