東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内自彊舎


自彊舎


   元塚交差点近くの共栄橋の北側に元塚橋があり、元塚橋より尻無川の東岸に「社団法人 自彊舎記念館」の看板が見える。

 自彊舎(じきょうしゃ)とは、大正15年(1926)に別子鉱業所支配人に就任した鷲尾勘解治がつくった私塾の名前である。
 自彊舎の名前は、住友家第3代総理事となった鈴木馬左也によって命名されたもので、
 易経 乾為天 「天行健 君子以自彊不息
 (天行健なり。君子を以て自ら彊(つよ)めて息(やす)まず。*)
 から自彊舎と名付けられた。
  *「天行健なり」とは、天地、日月四時の変遷運行は、わずかの間もとぎれることなく規律正しく健全に行なわれて違うことがないとの意。
 君子はかかる健全なる天の運行に則とり、おのれを修め、人と交わり、学問に励み職責を完うして、怠るところあってはならない。
 あたかも天行の健なるがごとし。   
 
 鷲尾勘解治は、明治40年(1907)別子鉱業所に入社後、大正元年(1912)に、別子山村風呂屋谷で自彊舎を開設して、坑夫従業員の訓育教化の場とした。
 その後、採鉱本部の移転に伴い、大正5年(1916)に東平、大正15年(1926)には川口新田に移転された。

 鷲尾勘解治は、昭和8年住友本社常務理事を最後に退社したが、自彊舎での教育活動は昭和20年(1945)まで続いたという。
 川口新田の自彊舎は、その後も寄宿舎や寮として使われていたが、昭和38年(1963)に閉鎖された。
 
 鷲尾勘解治は住友を退社後も、鷲尾を慕う新居浜の人々から呼ばれて晩年を新居浜で過ごした。
 「自彊舎記念館」は、晩年の鷲尾勘解治の活動の拠点であったのだろう。
 中には鷲尾勘解治の使った書斎が残されているという。
 
 「自彊舎記念館」は普段は閉鎖されているが、毎月13日には鷲尾勘解治の教えを引き継ぐ益友会による講話が行われている。



 2007年、市内の12箇所に産業遺産説明板が設けられ、自彊舎記念館にも説明板が設置されている。






 説明板の写真にもある「自彊舎」の看板は今でも残っているが、隣に家が建ち、外からは見えなくなっていた。
 
自彊舎
 
 自彊舎は、もともと明治45年(1912)に旧別子の風呂屋谷で、会社の舎屋を借り受けて鷲尾勘解治の私塾として開かれたものである。鷲尾は自ら志願して坑内で働いた経験から、青年坑夫の精神的な向上を図る必要性を痛感して、総理事の鈴木馬左也に、学生時代の禅の修業経験を加味した教育を行うことを申し出て了承を得て開塾した。
 自彊舎の名は中国の古典の「天行健 君子以自彊不息」(天行健なり。君子を以って自ら彊めて息まず。)から取られた。「おのれを修め、人に交わり、学問に励み職責を全うして、怠ることがあってはいけない。」という意味で鈴木総理事によって命名された。 
 採鉱本部の移転に伴い、自彊舎も旧別子から東平、川口新田へと時代とともに移転した。戦後になって社団法人自彊舎記念会を結成し、菊本町に元塚自彊舎道場を建設して活動を続けている。

 じきょうしゃ
小学生用解説

 1912年に銅山で働く若者の教育のために鷲尾勘解治が、旧別子に開いた塾。銅をとる本部の移動とともに東平・川口新田へと移り変わった自彊舎は、現在「自彊舎記念会」と形を変え、この地で活動を続けている。
新居浜市
 


鷲尾勘解治について
出身地 兵庫県武庫郡須磨村白川
生年月日 明治14年(1881) 5月10日
没年月日 昭和56年(1981) 4月13日

略歴 
明治40年(1907) 別子鉱業所就任(10月8日)
明治41年(1908) 採鉱課勤務(10月14日)
明治45年(1912) 青年修行の場・自彊舎設立(別子山村風呂屋谷)
大正2年(1913) 採鉱課別子出張所兼採鉱課勤務(8月4日)
大正5年(1916) 採鉱課勤務(1月10日)
大正6年(1917) 休職(5月26日)
大正8年(1919) 復職し、設計部勤務(6月13日)
大正11年(1922) 別子鉱業所副支配人兼労務課長に就任(1月5日)
大正12年(1923) 別子鉱業所副支配人兼地所課長に就任(2月27日)
大正13年(1924) 別子鉱業所副支配人兼採鉱課長に就任(12月20日)
大正15年(1926) 別子鉱業所支配人に就任(4月16日)
昭和2年(1927) 住友別子鉱山鰹務取締役に就任(10月15日)
昭和5年(1930) 住友別子鉱山叶齧ア取締役に昇進(2月28日)        
住友合資会社理事に就任(8月12日)
昭和6年(1931) 住友合資会社常務理事に就任(2月24日)
昭和7年(1932) 住友合資会社常務理事を罷免となる(4月4日)
昭和8年(1933) 依願退職(12月21日)
昭和56年(1981) 新居浜市の住友別子病院にて死去(99歳)

主な功績

 自彊舎、親友会、改善会をつくり、社員に親愛の心と地方との共存共栄の心を養った。

 社員の作務により、相撲場、
山根グランド、角野小学校校地拡張の整備を行った。

 山田社宅、川口新田社宅の建築により、福利厚生の充実を図った。

 新居浜築港、昭和通りの整備など新居浜の都市計画の基盤をつくった。

 住友別子鉱山葛@械課の独立(現・住友重機械工業梶jと鰹Z友肥料製造所(現・住友化学工業梶jの振興に尽力した。
 

 
 鷲尾勘解治の頌徳碑 → 宗像神社
 
 鷲尾勘解治により揮毫されたもの  → 惣開小学校の表札

                        → 龍河神社の社名碑

                        → 久貢屋敷の天野喜四郎翁顕彰碑 


     
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