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武者像について 平成15年11月起
歴史と人情の町金栄ここには豊かな緑と数多くの史跡がある住む人々の生活の礎は戦国の昔、豊臣秀吉の四国制覇で攻撃軍を相手に郷土愛に燃えて戦い散った多くの先祖の熱い心が地域の気質として根付いている
天正13年7月3日(西暦1585年)金子城は備後守の弟、対馬守元春公が僅か数百の兵で死守していた時滝の宮口より揚葉蝶の旗指物を靡かせて土佐の勇将、片岡光綱公が三百余名の軍勢を率い馳せ参じてこられたが、これは初手から死出の援軍に他ならなかった。 この援軍で金子勢は起死回生の応戦を試み、光綱公も勇猛果敢、敵将も驚く作戦で奮迅の働きをみせたが如何にせん多勢に無勢7月7日尤も激しかった北谷口の戦いで敵弾に当たり惜しみて余る勇将は無念の戦死、金子城も防戦空しく7月14日ついに落城、この日朝の決戦で花房新兵衛公他多数の将兵も討ち死にした。
悲運の城将元春公は落ち延び僧侶となって後にこの地に戻り死者の霊を弔う寺として建立に努めたのが今の名刹慈眼寺と謂われている。
攻撃軍の総大将小早川隆景公が守備軍の壮絶な戦い振りを褒め称えて多くの死者の亡骸に合掌、法衣姿で舞った弔いの舞から誕生した当保存会が設立から十年を迎えるにあたり校区を挙げての記念事業として、特に関わり深い高知県越知町有志からの温かいご支援と地域の方々のご理解あるご協力、そして慈眼寺からの用地提供に基づいて当時、盟約遵守と郷土防衛と謂う大儀の為この知で敢え無く果てた多くの勇者の鎮魂供養並びにその威徳顕彰の碑であることを記す
新居浜市金栄トンカカさん踊り保存会
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