東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内久貢山


久貢山


 
 新居浜の川東の多喜浜地区は、昔は塩田があり製塩業が盛んであったという。
 今では埋め立てられて工業団地になっているが、その中に小さな山を見かける。
 これが、久貢山(くぐやま)で、昔は小さな島だったのだろう。
 久貢山の西側にも小さな山があり、これを「小久貢」、大きい方を「大久貢」とも呼ばれている。
 この大久貢と小久貢については、大島の吉祥寺に伝わる石鎚島之助(大島島之助)の話にも出てくる。
 
 久貢山は、急峻な山の斜面に自然の樹木が生えていて、埋め立て地である周囲とは異なる生態系が残っている。そのために多くの野鳥が飛来しているのが観察できる。
 
大久貢  小久貢
   久貢山(大久貢)の麓には、市指定史跡「久貢屋敷」があり、県指定の天然記念物となっている大きなソテツが生えている。
 


県指定 天然記念物
 ソテツ(蘇鉄)
昭和32(1957)年12月14日指定

  
 根回り・・・・7M 高さ・・・5M
 地上での広がり・・・・・約65M2
 享保年間(1730年ころ)多喜浜塩田の開祖 天野喜四郎元明氏が、ここを本拠にして塩田の開発を進めました。
 そのとこの記念にここに植えた雌株のソテツが成長し、このように大きくなりました。
 このようなことから、このソテツは、多喜浜塩田発祥の地を後世に伝える生きた記念物として、とても貴重な存在です。
 みんなで大切に守り育てることに努めましょう。
 ソテツは、九州の南の亜熱帯の海岸の断崖やその近辺に生える常緑の低木、他の樹木のように年輪がありません。
新居浜市教育委員会
 
 久貢屋敷は、多喜浜塩田の開祖である天野喜四郎の住居のあった所であり、鷲尾勘解治筆による「天野喜四郎翁顕彰碑」が築かれている。

 多喜浜塩田開基 


天野喜四郎翁顕彰碑

    鷲尾勘解治題
 
 

(裏面)

 新居浜市文化協会建之

     昭和45年4月 
 
 

天野喜四郎翁事績

 
 抑々 多喜浜塩田は江戸時代西条藩領内に於ける三大事業の一つとして世に知られ 宝永元年長野県の人深尾権太夫翁が起工 久貢山沿い13間浜堤を完成したが 享保5年深尾氏の逝去に依り 広島県御調郡吉和浜の塩業家天野喜四郎翁が此の地の人々の懇請をうけ 来りて久貢山の地に居を定め塩田の築造に着手したが 享保8年の一大飢饉に遭遇せしため紀州藩を通し幕府に糧米貸丁万を出願して容れられ 糧米を確保したことにより近郷近在の人々喜んで工事に集まり 地方民の飢を救い一方工事は順調に進捗した その故をもって11年17日喜四郎は紀州藩に召され藩候に嘉賞され酒食並に御盃を賜る光栄に浴し 享保9年塩田 16町6反を完成 続いて享保18年塩田宅地田畑併せて36町1反の築造に成功し多喜浜塩田の基礎を確立 更に次期工事を計画中 宝暦6年初代喜四郎翁は惜しくも世を去ったが 喜四郎翁の夢は歴代の天野氏の手に依り二百余年の継続事業として続行され  古浜、東分、西分 北浜 沖浜 三喜浜併せて240町歩に及ぶ日本屈指の大塩田となったもので 初代喜四郎翁の功績は明治30年第2回水産博覧会に際し総裁大勲位彰仁親王より賞状を追贈される光栄に浴した 
 時移り世変わりて昭和34年多喜浜塩田は廃田となったが 時代の脚光を浴び工業団地として新しく飛躍発展を見んとする時 初代喜四郎翁の旧邸遺跡の地に碑を営み その功績の一端を誌して永く後人に伝えんとするものである。

昭和45年 弥生
  新居浜市文化財保存委員会
         合田正良
         池田窓雪 謹書
 
 
   久貢屋敷の隣には「久貢記念館」という看板の掲げられた建物があったが、閉鎖されていた。




   

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