東人の新居浜生活あかがね探訪足尾銅山足尾銅山(4)


足尾銅山(4)


通洞鉱山神社

   足尾銅山観光のトロッコ列車乗り場の反対側に通路があり、その通路を登ると土産物屋や食堂などのある建物に入る。
 この建物が足尾銅山観光の出口になるが、出たところに通洞鉱山神社があった。
 

通洞鉱山神社

 足尾銅山の本山坑・小滝坑・通洞坑の三山にそれぞれ山神社が建てられた。
 当神社は銅山最盛期の頃の大正9年(1920)に鉱業所がこの地に移設されたとき造営され、以後、山神祭も盛大に行われた。
 通洞坑の開発は明治18年に着手されたが、それまで足尾銅山発祥地の簀の子山神社を祀っていた。
 
日光市
 

 

狛犬

 愛敬のある独特な顔のこの狛犬は、享保3年(1743)に彫られた簀の子橋山神社にあったが、大正9年当神社造営のときここに移された。
 
日光市
 

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足尾の山


 通洞大橋附近で見える山には、緑の濃淡が明確に異なる部分があり、新たに植林された部分であろうと推察される。
 さらに奥の方では、岩肌が露出した山が広がる。
 
 かつては別子銅山の山もこのような禿げ山だったらしいが、伊庭貞剛の進めた
植林事業で山が自然に還っている。
 
 足尾銅山でも植林事業は行われているようだが、苗木を植えてもカモシカに食べられてしまうという問題もあるらしい。
 
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足尾歴史館

 
 足尾歴史館は、「足尾銅山観光」から歩いて数分の所にあった。
 
別子銅山記念館に相当するものであろうが、規模は小さく、「足尾銅山観光」に比べても訪問者は少なかった。
   
 


 足尾歴史館の玄関に、このような鉄道車輌が置いてあった。
 「足尾銅山観光」に展示してある1屯角鉱車とも形が違っているが、特に説明はついていない。

 別子銅山で使っていた三角坑車に似ている。
 傾斜させて鉱石を降ろしたものであろう。
 


 別子銅山・東平の鉱山運搬機器展示場で展示されている三角坑車
 

三角坑車

 坑内から運び出される鉱石などを運搬した鉱車で、古い形のもので、近距離の運搬に威力を発揮しました。
 人の手で簡単に傾転させることができ、積み荷を降ろせました。
  
 
 入場料300円を支払い受け取ったチケットには、
 「伝えよう足尾銅山の光と影 足尾歴史館友の会一日会員券」
 と書いてあった。

 説明の要否を尋ねられ、折角なので係の人から説明を受けた。
 
 館内は撮影禁止となっていたが、主な展示は1階にあり、写真や説明文の掲示が多かった。

説明員の方から、足尾銅山の歴史、明治期の足尾銅山に小学校ができたこと、田中正造が足尾を訪れた時のこと、足尾の植林事業などの説明を受けた。

 
 二階は、特別展示と売店および休憩コーナーとなっていた。
 売店には足尾銅山に関わる書籍が販売されていた。
 
 足尾のガイドブックのような小冊子が有料(\100)で販売されていたので購入した。

 ここには置いていないだけであるかもしれないが、足尾銅山について解説した無料パンフレットなどの資料は、別子銅山に比べて少ないように感じた。
 
この小冊子に、足尾の名前の由来についてこのように記されていた。
 

「足尾」の地名のはじまり

 
 地名の由来として”ねずみの話”があります。
 むかし「勝道上人」という僧侶が日光のお寺にいたとき、ある日一ぴきの”ねずみ”が粟やひえの穂をくわえて、どこからともなくあらわれたり姿を消したりしたので、上人はこの山奥に粟やひえの穂があるはずがないと不思議に思って、このネズミの足にひも(緒)を結んで目じるしにして、そのあとをつけてみると、山のふもとの方に人家がありました。
 そこで上人はここを「足緒」と名付けたのが後に「足尾」となりました。
 上人はそのあたりは僧が修行をつむのに適している土地だと考えました。
 その後、上人の弟子たちがこの土地へ来て、修行をつんだり寺を建てたりしたのが足尾のおこりだといわれています。
 
 一方、学問的には、地形的なことから山の高いところや山のふもとの延びたところを「尾」ということや山の峰つづきを尾根とよんだりすることからこの地名がつけられたのであろうとみられています。
 足尾の近くに細尾や粕尾という地名があるのも興味深いことです。
 
 また勝道上人とゆかりのあるねずみが入ったという”ほこら”が大黒橋のたもとにあり、現在は波之利大黒天として祀られています。
 秋には大黒天まつりがひらかれていて、みこしが町中をねり歩きます。
 


 別子銅山の旧別子には、足谷川という川があり、小足谷という地名も残っている。
 この「足」は「悪し」からきていると聞いたことがある。
 銅鉱石の露頭のある山では、重金属が溶け出して生き物の成育に影響することもあったのであろう。
 「悪し谷」が転じて「足谷」と表記するようになったのだという。
 
 単なる類推ではあるが、「足尾」の由来も「悪し尾」では無いだろうか?
 
 違っていたとしても、今の足尾は、人間活動が、草木の生えない禿げ山、すなわち「悪し尾」にしてしまったようにも思う。
 
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選鉱所跡


 足尾歴史館の裏手の方向に廃墟となった建物が見えた。 ここが選鉱所の跡らしい。
 
 フェンス越しに廃水処理のシックナーが見えたが、選鉱場全体が停止した状態のようだ。
 
 敷地内にはスクラップが散乱していた。
 
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