東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内別子山の文学碑

別子山の文学碑

 別子山地区でも、いくつかの文学碑を見かけた。
 
圓通寺(南光院)の近く


文学碑めぐり


【歌】

もろもろの人の祷ぎこと

       ききまして

     仏が志こくほほえみ給ふ

作者 合田 正良
別子山村教育委員会
 
筏津の別子観光センター内




炉辺に聞く 元禄別子開坑史
   
新居浜 本田三嶺子 作

この句は昭和20年筏津社宅営繕工事に来所弟地宿舎で出来た句で
高浜虚子先生選句、評に
 別子銅山を簡潔に云ひ得て妙   と

作者は昭和15年より投句を始め
柳原極堂、阿部里雪、今井つる女、品川柳之各先生に師事、
元愛媛県表具組合副組合長、元新居浜市民生委員を歴任
現在 極堂会東予支部長

建立者 神戸市須磨 藤原 猛氏
白滝鉱山に生まれ祖父別子銅山、母方近藤家出身の縁故者で文学碑を建立
現在藤原化工株式会社取締役

原石寄贈者  別子山村成  近藤和豊氏
施工者  伊予三島  近藤石材店
新居浜  北四建設
筏津の別子観光センター内


文学碑めぐり


【歌】

朝山の
 入坑時刻のざわめきの
  しばらくにしてほととぎすの声

作者 川田順
新居浜市教育委員会
 


 フォレスターハウス

  
 伊庭貞剛の没後75年を記念して建てられたものである。
 
 伊庭貞剛が新居浜での5年の業務(1894年〜1899年)を終え、尾道に向かう船中で、雪に覆われた別子の山々を遠望し、詠んだ歌である。
 
 

 五カ年の        
 跡見返れば            
 雪の山
            
 


 この歌には、品川弥二郎が下の句をつけていた。

 月と花とは 
 人に譲りて
 
 伊庭貞剛の5年間は、「雪月花」の中の最も厳しい「雪」の時代のみであり、月と花を愛でることは後継者に譲ったと詠んだものであった。
 

 
 伊庭貞剛の後継者は鈴木馬左也であったが、その後の別子も四阪島の煙害問題等に翻弄され、月と花を愛でるどころでは無かったというのが、その後の歴史であった。
  

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