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旧別子と筏津坑
別子銅山は今を去る291年前の元禄3年(1690)銅山峯の南面(別子山村)で露頭が発見され、当時大阪の銅商泉屋(住友)が請負、翌年9月22日から採掘を開始した。以来225年にわたる栄光と苦斗の歴史がこの山中に展開され、明治末期まで無慮1万数千人の人達が別子銅山の盛衰と共に人生の哀歓を奏でたのである。
大正5年(1916)採鉱の中心が峰北に移り、以後銅山は自然の眠りについたが、別子銅山創業の地である附近一体を今日私たちは限りない愛着をこめて旧別子と呼んでいる。筏津坑は初め弟地坑と呼ばれ明治11年(1878)開坑し(対岸山裾に坑口あり)一時休止の時期もあったが爾来95年間別子銅山の一支山として貢献した。
この坑道は筏津新坑口として昭和15年(1940)に開坑され48年(1973)3月閉山まで筏津坑勤労斜の出入坑口であった。坑口周辺には、銅山で働く人達の社宅、クラブ、娯楽場、診療所、日用品販売所などが軒を連ね、盛況を極めていたが閉山により廃墟と化した。
観光立村を目指す当別子山村が観光施設の拠点として開発に力を注ぎ、関係先の協力を得て、思い出深い坑道を活用し、遊歩道、資料展示場として解放し、別子山村の歴史を理解していただくと共に観光発展の一助に資するものである
−別子山村− 昭和56年5月
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