東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内圓通寺


圓通寺


 
 別子山地区の旧別子登山口から東に進んだ所に圓通寺がある。
 旧別子にも、圓通寺小足谷出張所跡があり、別子銅山で働いていた人々の宗教上のより所であったお寺である。
 

圓通寺

        高野派古義真言宗
        雲谷山圓通寺三業院

        
 鎌倉期、近藤季俊が土佐の国大北川に開創、慶長年間(1597年頃)本村大野山誦経の久保に移転す。延宝6年(1678年)保土野(現学校)に勧請し、宝永2年(1705年)再建され、明治34年(1901年)現在地に移る。尚、小足谷に本寺出張所があったが銅山の移転と共に廃せらる。
 
 ◎次の諸仏が納められている。
 大日如来坐像
 十一面観世音菩薩坐像
 (保土野に過ぎた観音さまといわれていた。)
 不動明王立像
 毘沙門天像
 地蔵菩薩像(別子銅山産出の銅鉱石で作製)
 阿弥陀如来立像
 弘法大師像
新居浜市教育委員会
 


市指定文化財     彫刻
平成14年3月28日指定

 木造阿弥陀如来立像
 本像は、大きな髻や小粒の螺髪・流麗な衣文など平安時代後期11世紀後半から12世紀の像の特徴を示している。
 詳しい明確な伝来は知られないが、別子山での最古の像と見られ、周辺地域を含めても数少ない古様を示した像として貴重な存在である。
 
 木造大日如来坐像
 像高  45cm
 船形光背先端までの全高 100.4cm
 圓通寺の大日如来坐像は、衣部は漆箔、肉身部は金泥塗りの荘厳華麗な仏像である。
 落ち着きのある面相部や膝前のやや太目の衣文などから江戸時代の作と考えられる。
 台座、光背とも見事な彫刻が施され、当代の技術を結集した優作といえる。
 
 木造聖観音菩薩坐像
 本像は面長で高く大きな髻、また肩部や膝前にみられる複雑な衣摺の表現、そして腹部にみられる腹帯の存在、やや前かがみの側面観などから本像は、室町時代の制作にかかるものと推察される貴重な仏像である。
 
 
市指定文化財     歴史資料
平成14年3月28日指定

 圓通寺棟札
 銅山開坑以後、別子銅山との深いつながりをもった寺であったことが重要な意味をもつ。
 圓通寺が別子銅山そして鉱山と深く結びついていた歴史を語り、それをうかがい知ることができる棟札は貴重な資料である。
 
 鉱石地蔵菩薩立像
 圓通寺の鉱石地蔵(像高93cm)は、銅鉱石でつくられているといわれることでよく知られている。
 制作は江戸時代前期、元禄時代ころに造られたと伝えられ、以後、多くの人の祈りのため線香の煤で黒くなり、歴史の重さを感じさせ別子銅山の歴史を物語る貴重な像といえる。
        
新居浜市教育委員会
 

* 圓通寺の鉱石地蔵菩薩立像は、かつては歓喜坑の坑口に祀られていた。
 坑夫達は入坑の際に安全を願い線香を供えていたといわれ、その煙で真っ黒になったとのこと。



 
 圓通寺に隣接した建物に「南光院」の表示がある。
 南光院とは、人々から敬われていた元禄時代の僧侶の名である。
 

南光院

 徳島県大里の人、元禄7年(1695年)土居上野に留錫中の南光院快盛法印は、住友家の要請により別子銅山に移り住民の為に日夜を分けたず福祉に努め、物の怪を物住谷に封じ、文盲の鉱夫に文字を教え、病を医して全山総て其徳 浴す快盛師示寂にあたって此地を以て、墳墓の地と遺言された、銅山内外老若男女、涙と共に師を送り、後に一ノ霊神として敬うていたが、寛政年間(1790) 別子銅山の守護神として南光八幡大菩薩と敬い、社殿を建立し永くその徳を慕う。明治7年(1874)神仏分離と共に圓通寺鎮守仏となり、現在に至る
 現拝殿は、明治12年再建されたものである。尚、上方に墓地、住友トク氏建立の本殿がある。 

白尾神社

 蛇渕の大蛇を退治して其の尾を祭ると伝えられている。
 
西国三十三ヶ所巡拝所

 境内にあり、大僧正良講和尚が衆生済度の為にこの山を開き、村人達の一日の清楽を得させんものと自らの手によって建立された。
新居浜市教育委員会
 

市指定文化財  天然記念物
平成14年3月28日指定


サルスベリ


樹高 推定 約13m
幹周り 0.8m
樹齢 推定 三百年
 

   

新居浜の寺院
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