この国に生きて 異邦人物語57 | |
モスクを建てた亡命タタール人 |
産経新聞2002年3月15日第14面掲載 |
ムハンマド・クルバンガリー 5 ロシア(1890-1972) |
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在京タタール難民は戦後、その多くが日本を離れた。きっかけは昭和二十五年に始まった朝鮮戦争だった。 トルコの兵隊も国連軍に参加して戦地へ赴いた。トルコ兵は負傷すると、日本に後送された。 「同じ民族が傷ついている」 在京タタール人たちは、病院に傷病兵を見舞った。大阪ではタタールの女性たちが、数百人収容された赤十字病院へ毎日十人ずつ通って看護奉仕を続けた。 異国の地で心細い思いをしていたトルコ兵への気づかいに、トルコ大使館の関係者は感激して「何かお返しをしたい」と申し出た。「では、トルコ国籍をいただけませんか」。タタール人たちは戦前からの念願を口にした。 帝政ロシアの滅亡で国籍を失った彼らは、ソ連の国籍を取る者がいたものの、多くは無国籍のままだった。トルコ政府は昭和二十八年、彼らにトルコ国籍を認めた。「トルコ人」になった彼らの多くは、トルコや米国へ移住していった。当時の日本はまだ敗戦の混乱から抜け出せず、子供の教育などに希望がもてなかったからだという。 東京に残ったタタール人たちの中には、貿易商や医者になるものも現れた。テレビの司会で人気を博した黒ぶち眼鏡のタレント、ロイ、ジェームスもタタール人二世である。しかし、洋服の行商で食べていた人々は社会が安定するにつれ、仕事は先細りとなった。彼らにとって格好のアルバイトは、映画出演だった。 昭和三十年代といえば、日活アクション映画の黄金期。裕次郎や小林旭に投げ飛ばされたり、拳銃で撃たれたりする「不良外人」や戦争ものの兵隊役が多かった。 神田岩本町の洋服問屋、三上弥寿男(六六)の店にそのころ、モロゾフというタタール人の行商人がひょっこり顔を出した。戦前はよくきていたが、いつの間にか姿を見せなくなった老人だ。 「今、何してるの」 「うん、日活の映画に出ている」 彼は、宍戸錠主演の『早射ちジョー砂漠の決闘』(三十九年)に、「ミスターX」なる役で出演していたアブドゥラ=モロズである。モロゾフはモロズのロシア読みだ。 クルバンガリーは晩年まで、ムッラーと呼ばれるイスラム学者を務めた。昭和四十七年八月二十二日、故郷に近いチェリャビンスクで八十一歳の生涯を閉じた。 訃報を伝える電報が親族を通じて、日本で帰りを待ち続けた妻、ウンムグルスムと長男、アサド(六八)に届いた。手紙のやりとりはあったが、クルバンガリーの出国許可は最後まで出なかった。妻は平成六年、渋谷区の「留守宅」で亡くなった。 「父のことはあまり知らないんです」。翻訳業を営むアサドは言う。 「ぼくが四歳のときに満州に行って、それっきり帰ってこれなかったんだから。あとは母から『偉い人だった』と聞くだけ」 戦前からいる古い在京タタール人は今、その子孫も含めて六十人ほど。日本人とのハーフが多いという。彼らの両親、兄弟たちは、東京・府中の多磨霊園にある外人墓地などに眠る。 金曜日の午後、再び渋谷の二代目モスク「東京ジャーミイ」を訪ねた。 クルバンガリーから数えて七代目に当たるトルコ人イマーム、ジェミル・アヤズ(五六)は真新しい執務室にいた。 「ロシアから来たタタール人たちは、東京で自分たちの文化や伝統を、宗教を守り続けた。クルバンガリーたちが頑張って初代モスクを建てたからこそ、この新しいモスクもあるのです」 彼らにアッラーのご加護を、と天井を仰いだイマームは、こう付け加えていたずらっぽく笑った。 「彼らがいなければ、私があなたと出会うこともなかったでしょ?」 (敬称略) =おわり |
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産経新聞 | |||
産経新聞、執筆者さん、すばらしいシリーズありがとうございました。 クルバンガリー師とタタール人たちに神のご加護を。今の私たちが居るのも彼らのお陰だと思います。 |
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イスラムのホームページ管理人あぶ |