この国に生きて 異邦人物語55 | |
モスクを建てた亡命タタール人 |
産経新聞2002年3月13日第13面掲載 |
ムハンマド・クルバンガリー 3 ロシア(1890-1972) |
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クルバンガリーが在京タタール人のイマームとして活躍していたとき、彼の下で「ムアジン」という補佐役を務めていた男がいた。ガイナン・サファである。毎週金曜日の礼拝前にモスクの尖塔に登り、「アッラーホ、アクバル(アッラーは偉大なり)」と大声で怒鳴って祈りへ誘う役目だ。彼の平日の顔は行商人だった。 サファはクルバンガリーより八つ年下の明治三十一(一八九八)年生まれ。家は宗教家だったが、反革命軍に投じて満州に落ちのびた。大正十五(一九二六)年ごろ東京へ移り、洋服地の行商を始めた。住まいは上野御徒町の長屋だった。タタール難民の多くは渋谷区に住んだが、彼は下町を愛した。 「親父は浅草が好きで、浪花節が好きで、『浪花節のうなり声はコーランの朗唱と一緒だ』と言ってました」。こう話す四男のラマザン(六二)も、下町生まれの二世らしく、江戸っ子のべらんめえ調である。 行商先は埼玉、千葉、茨城の三つの県境が接する農村地帯。東武鉄道日光線で埼玉県の幸手まで行き、駅前に預けていた自転車の大きな荷台に風呂敷包みを二つ載せて、ペダルをこいで集落を回った。 サファは昭和十二年ごろから、自宅の洋服の仕立ても始めた。長屋の入り口からは、シンガーミシンを踏む音が往来まで響いた。それでも行商は欠かさなかった。なじみの商人宿があったからである。 「親父が話していた旅館は、サカエ町の『中村旅館』です」というラマザンの記憶を手がかりに探した”中村旅館”は、健在だった。 幸手駅から田園地帯を車で二十分ほど走り、雄大な江戸川と利根川を次々と渡った先にある街道沿いの町が、茨城県境町だ。正確には、「橘屋旅館」といい、当主が代々、中村姓だった。三代目のご隠居、中村政春(七九)は「行商人は富山の薬売りや魚売り、毛布屋、綿屋、毛糸屋、瀬戸物屋・・・。何でも来てましたよ」。 サファは唯一の外国人だった。パチンコが好きで、宿の向かいのパチンコ店でよく負けてきたところなどは日本人と変らなかったが。 妻の澄江(七九)は「この人、豚肉を全然食べないのよね。『宗教の関係で食べられない』と言ってたから、サフエンさんだけは豚を出さなかったの」と面白そうに話す。澄江たちはサファのことを「サフエンさん」と呼んだ。サファのロシア読み「サフエフ」がなまったものだろう。 夕食前に風呂を使うサファは、浴室から澄江に決まって声をかけた。 「もう出ますから、”上がり水”をください」 井戸水をくんで届けると、冷水をかぶって身を清め、自分の部屋で布を広げてお祈りをささげた。「正直なおとなしい人だったよねえ。やっぱり宗教の人だから、善悪の区別がきちんとした人だった」と澄江は振り返る。 サファは戦後も行商を続けた。商品は上野アメ横で仕入れた進駐軍払い下げのシャツやズボン、チョコレート、干しぶどうに変ったが、還暦を迎えるまで現役だった。昭和五十九年、八十五歳で亡くなった。ラマザンは親父の口ぐせを覚えている。 「日本人は、他人の国からきた外国人を住まわせてくれて、よくしてくれた。おかげさまでなあ」 彼も戦中戦後のこの国を生き抜いた、我々の隣人なのだ。 (敬称略) |
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産経新聞 |