この国に生きて 異邦人物語55
モスクを建てた亡命タタール人
産経新聞2002年3月13日第13面掲載
ムハンマド・クルバンガリー 3 ロシア(1890-1972)
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庶民に親しまれた行商人
 トルコ系のタタール人は根っからの商業民族だ。
 東京近郊の町の片隅。行商人のタタール人男性が、とある民家の戸をたたいた。扉を開けた女性は「留守です」と一言。「いえ、ルスではありません。私、トルコです。」
 「ルス、ルス」と繰り返す女性に、男性は片言の日本語で「トルコ、トルコ」と言い返す。「ルス」はタタール語で「ロシア人」の意味だ。
 「あの時は困ったよ。何度トルコ人だと話しても、ルスと言われるんだ」。在京タタール人の間に伝わるエピソードである。
 大正末期から昭和初期にかけては、日本人の普段着がちょうど和服から洋服に変わる節目の時代だった。「日本洋服史」といったといった本には一行も出てこないが、日本の農村まで洋服を普及させるのに一役も二役も買ったのは、彼らタタール人難民の行商人たちだったのである。
 洋服問屋が軒を連ねる東京・神田、岩本町界隈。明治時代から神田川沿いに古着屋が並んでいたが、昭和初年には洋服問屋の町になった。
 タタール人の行商たちが仕入れに来ていたころの商品は、袖なし外套「トンビ」やマントといった羊毛のラシャが中心で、戦前まで「羅紗既製服」の看板が並んでいた。
 「トルコとかロシアの人が多かったね。戦後も、外国人といえばアメリカ人って時代だったけど、あやじは『あの人はアメリカ人じゃないんだよ』と言ってました」
 洋服問屋「三弥衣料」の二代目、三上弥寿男(六六)は、スーツが所狭しとつり下げられた店内で語る。「おやじは戦前、朝鮮や満州へ夜行列車を乗り継いで商売に行ってました。懐に現金を入れてね」
 三上はそう言って、オーバーを大陸へ送る大きな木箱の中で遊んだ少年時代を懐かしんだ。

 クルバンガリーが在京タタール人のイマームとして活躍していたとき、彼の下で「ムアジン」という補佐役を務めていた男がいた。ガイナン・サファである。毎週金曜日の礼拝前にモスクの尖塔に登り、「アッラーホ、アクバル(アッラーは偉大なり)」と大声で怒鳴って祈りへ誘う役目だ。彼の平日の顔は行商人だった。
 サファはクルバンガリーより八つ年下の明治三十一(一八九八)年生まれ。家は宗教家だったが、反革命軍に投じて満州に落ちのびた。大正十五(一九二六)年ごろ東京へ移り、洋服地の行商を始めた。住まいは上野御徒町の長屋だった。タタール難民の多くは渋谷区に住んだが、彼は下町を愛した。
 「親父は浅草が好きで、浪花節が好きで、『浪花節のうなり声はコーランの朗唱と一緒だ』と言ってました」。こう話す四男のラマザン(六二)も、下町生まれの二世らしく、江戸っ子のべらんめえ調である。
 行商先は埼玉、千葉、茨城の三つの県境が接する農村地帯。東武鉄道日光線で埼玉県の幸手まで行き、駅前に預けていた自転車の大きな荷台に風呂敷包みを二つ載せて、ペダルをこいで集落を回った。
 サファは昭和十二年ごろから、自宅の洋服の仕立ても始めた。長屋の入り口からは、シンガーミシンを踏む音が往来まで響いた。それでも行商は欠かさなかった。なじみの商人宿があったからである。
 「親父が話していた旅館は、サカエ町の『中村旅館』です」というラマザンの記憶を手がかりに探した”中村旅館”は、健在だった。
 幸手駅から田園地帯を車で二十分ほど走り、雄大な江戸川と利根川を次々と渡った先にある街道沿いの町が、茨城県境町だ。正確には、「橘屋旅館」といい、当主が代々、中村姓だった。三代目のご隠居、中村政春(七九)は「行商人は富山の薬売りや魚売り、毛布屋、綿屋、毛糸屋、瀬戸物屋・・・。何でも来てましたよ」。
 サファは唯一の外国人だった。パチンコが好きで、宿の向かいのパチンコ店でよく負けてきたところなどは日本人と変らなかったが。
 妻の澄江(七九)は「この人、豚肉を全然食べないのよね。『宗教の関係で食べられない』と言ってたから、サフエンさんだけは豚を出さなかったの」と面白そうに話す。澄江たちはサファのことを「サフエンさん」と呼んだ。サファのロシア読み「サフエフ」がなまったものだろう。
 夕食前に風呂を使うサファは、浴室から澄江に決まって声をかけた。
 「もう出ますから、”上がり水”をください」
 井戸水をくんで届けると、冷水をかぶって身を清め、自分の部屋で布を広げてお祈りをささげた。「正直なおとなしい人だったよねえ。やっぱり宗教の人だから、善悪の区別がきちんとした人だった」と澄江は振り返る。
 サファは戦後も行商を続けた。商品は上野アメ横で仕入れた進駐軍払い下げのシャツやズボン、チョコレート、干しぶどうに変ったが、還暦を迎えるまで現役だった。昭和五十九年、八十五歳で亡くなった。ラマザンは親父の口ぐせを覚えている。
 「日本人は、他人の国からきた外国人を住まわせてくれて、よくしてくれた。おかげさまでなあ」
 彼も戦中戦後のこの国を生き抜いた、我々の隣人なのだ。  (敬称略)
産経新聞