この国に生きて 異邦人物語53 | |
モスクを建てた亡命タタール人 |
産経新聞2002年3月10日第14面掲載 |
ムハンマド・クルバンガリー 1 ロシア(1890-1972) |
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亡命者や難民となったタタール人の多くは、西のフィンランドやドイツへ向かった。一方、彼らの一部はシベリア鉄道沿いに東へ逃げ、満州北部のハルビンへたどり着いた。彼らの中には大正十年ごろから、さらに東の国、日本へ渡る者が現れた。日本を経由してトルコや米国へ移住する者もいた。 腰まである長い外套を着、羊毛を織ったラシャ地を肩に掛けた外国人が一軒一軒、家々の戸をたたいて歩く−。東京や神戸、名古屋など各都市で、こんな風景が見られるようになった。彼らは皆、タタール人の行商人だった。 東京に暮らして七十年という在京タタール人の長老、テミムダル・モヒト(八二)は革命の翌年、タタールの村で母親のおなかの中にいた。 家は地主だった。「ロシア兵が家に踏み込んできて、お母さんの大きなおなかをライフル銃の柄でたたいた。はずみで早産になり、双子だった一人は死んで生まれ、ぼくは生きた。」 一家は馬車で間道を通り、東へ逃げた。イルクーツクの手前で母親がチフスにかかり、シベリア鉄道の車内から、タイガの森に放り出された。ハルビンに着いたとき、乳飲み子だったモヒトは二才になっていた。ハルビンで十年暮らした後、昭和七年、姉夫婦を頼って日本へ来た。 日本に移り住んだタタール難民は約六百人。そのうち二百人ほどが東京に定住した。彼らのリーダーだったのが今回の主人公、ムハンマド・ガブドゥルハイ・クルバンガリーである。 クルバンガリーはイスラム教の礼拝導師「イマーム」として、民族独立の夢を胸に、東京でイスラム教団体を作り、小学校を建ててタタール語やイスラム教を教えた。アラビア文字による印刷所では極東初のコーランを印刷し、日本を紹介するタタール語の雑誌は、世界に散らばったタタール人に向けて発送された。 異国の地で難民生活を送るタタール人たちにとって、心の支えはイスラムの教えだった。クルバンガリーはモスク建立のため奔走し、昭和十三年、初代の東京モスクができた。その三年前に建てられた神戸モスクに続いて二番目だった。ちなみに、神戸モスクは戦災と阪神大震災を乗り越え、現存している。 クルバンガリーはタタール難民の多くとは少し立場が違い、政治的な亡命者だった。彼を日本へ連れてきたのは、シベリアで彼と出会った日本の軍部だったのだ。 アジア大陸への進出を目指した軍部や政府は、満州や中国、中央アジアに驚くほど多くのイスラム教徒が暮らしていることを知った。日本が大陸に進出していくときイスラム教徒に対する政策がいかに重要か。そこに気づいた軍部や右翼は、懐に飛び込んできたタタール人たちに救いの手を差し伸べた。 軍部の後ろ盾を得たクルバンガリーは、宰相から財界人、右翼まで大物人士の間を回り、雑誌発行やモスク建設費用を引き出した。青年時代にクルバンガリーの薫陶を受けたモヒトは、「彼らはぼくらを利用したけど、ぼくらも彼らを利用した。クルバンガリー先生はそれが上手だった」と話す。 クルバンガリーはトルコ系のタタール人の中でも、東方に住むバシキールという民族に属していた。外見は日本人とどこか似ていた。でっぷりと太って貫禄があった。身長は一六五センチほどだったが、いつも頭に巻いた白いターバンのおかげで五、六センチは高く見えた。日本語はそれほど上手ではなかったが、片仮名で手紙を書くことはできたという。 在京タタール二世で、現在、米国サンフランシスコに住むダイヤン・サファ(六七)は、三才までのおぼろげな記憶の中で、「ものすごくおっかない人だった」ことを覚えている。民族内の派閥争いから、彼を「陰謀家だ」などと中傷する者もいた。毀誉褒貶の激しい人物だったようだ。時は流れ、往時を知る在京タタール人も少なくなったが、彼らは次の一点で口をそろえる。「東京にモスクにできたのは、あの人のおかげです」 (敬称略) |
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産経新聞 |