この付近の牛車道には、ボーリングのコアが多数落ちている。 持ち帰って文鎮として使っている人も多いという。 |
牛車道の途中で銅鉱石の露頭が確認できる。
その近くに、古い坑口である大和間符の跡がある。 初期の坑道は狭い構造であったことがわかる。 |
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旧別子案内 No 20 元禄時代の古い坑道の跡で、人一人がやっと通れる位のせまいものである。 元禄8年(1695)、ここと立川銅山(別子開坑の60年位前から稼働していた嶺北角石原側の銅山で、当時西条領であった)の大黒間符が偶然に貫通し、境界争いとなって紛糾した。 のち、立川銅山は経営不振から、宝暦12年(1762)になって別子銅山に吸収合併され、住友家の経営に移った。ここから牛車道に沿ってしばらくの間は、道の山側に銅の露頭が表れている。 牛車道を別れて西へ、沢をつめる小道は笹ヶ峰への縦走路である。 |