さらに上流側が「赤倉」という所で、こちらにも説明看板が掲げられていた。
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足尾一の賑い 赤倉 往時の街並
嘉永6年(1853)に二宮尊徳が足尾郷を廻村したとき赤倉は18戸80人であった。明治10年(1877)に古河市兵衛が足尾銅山の再開発に着手すると、間籐と共に各地から人が集まり一挙に商店街が形成されたが、同20年松木の大火で全焼した。しかし、銅山の隆盛は商店街を驚異的に復興させ 同40年には約140軒の店が軒を連ね、中でも料理屋15軒、酒屋13軒、質屋6軒等は鉱山街を際立たしている。一般住宅も80軒余あった。とき恰も、同年に坑夫達による大暴動事件が発生し、本山で鉱業所や社宅60数棟が焼失するなどして、銅山機能は本山から通洞に移り、商店街に陰りがでるが、大正5年(1916)の足尾町総人口は38428人と最高となり、その頃の北部は社宅約300棟飯場20棟に達し賑いの最盛期であった。以後徐々に商店は減少した。昭和48年(1973に足尾銅山は遂に閉山、栄枯盛衰は鉱山街の宿命であり、現在(平成11年10月)の赤倉は92戸186人となった。
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