東人の新居浜生活あかがね探訪足尾銅山足尾銅山(8)


足尾銅山(8)


間藤水力発電所跡

 藤間水力発電所跡には、太い送水管の一部が保存されていた。
 遠くから見ると、岩肌の一部が削られている。
 ここから送水管が下に伸び、下の発電所に送水していたようだ。


日光市指定史跡
間藤水力発電所跡

 
 明治10年(1877)より足尾銅山を経営した古河市兵衛は、今までの銅山の動力源である、薪、木炭に代わるべきものとして、ドイツのジーメンス電気機械製造会社のヘルマン・ケスラー技師の勧めにより、はじめて水力発電にふみきり、明治23年(1890)12月、この地(上間藤)に原動所(水力発電所)を完成した。この水力発電所は日本初期のもので、松木川上流(現在の足尾ダム下)と深沢川から用水の取入れを行った。2.9kmの水樋はこの地の山頂の大鉄管に接続し、落水310,8mの水力によってトルビン式横水車を回転させた。400馬力の電力は、直ちに揚水機(坑内排水)、捲揚機(立坑ケージ用)坑内電車、電灯などに利用、銅山近代化を強力におしすすめる力となった。名残をとどめる直径1mの鉄管の一部が上の平がけ下にあり、原動所はこの下の渡良瀬川原にあった。

 昭和53年3月30日        
日光市教育委員会
 
   送水管は地面の下で道路を横切り、下の渡良瀬川岸の原動所に通じていたという。

 往時の写真によると、発電所は木造の建物であったようだ。
 川原には建築物の痕跡が残っていた。
 
 発電所が廃止された時には木造の建物は取り壊され、発電機等の機械は取り外されて土台の部分だけが残り、何度も大水に見舞われて、このような姿になってしまったのだと推察される。
 時が経てば、この痕跡も流されてしまうだろう。

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上間籐 往時の街並

 
 下間藤で見かけたものと同様な、昔の街並みについての説明の看板が設置されていた。
 





足尾一の賑い 上間籐  往時の街並

 
 江戸期嘉永6年(1853)に二宮尊徳が足尾郷を廻村したときの間籐村は、僅か19戸90人が静かに農耕を営なんでいたが、明治10年(1877)に古河市兵衛が足尾銅山の再開発に着手し、近代の技術と設備の導入によて飛躍的な発展を遂げるに至り、全国から坑夫達や商人等の集まるところとなり、上間籐は活気づいた街へと形成しつつあったとき、同20年の松木からの大火が上間籐も焼き尽くした。しかし、足尾銅山の勢いとともに驚異的な復興により、足尾随一の商業を中心とした最も賑う街並に変貌した。やがて足尾銅山は東洋一を誇り、名山足尾は「鉱都」と称され、最盛期の大正5年(1916)の人口は38428人で宇都宮市に次ぐ市制が期待されたが潰えた。その時の上間籐の人口は不明であるが、昭和10年(1935)は330戸1488人を有していた。同45年188戸591人、現在(平成11年10月)166戸、359人となった。昔日の夢は泡沫となったが道筋は往時のままである。
 
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赤倉 往時の街並

 
 さらに上流側が「赤倉」という所で、こちらにも説明看板が掲げられていた。
 





足尾一の賑い 赤倉  往時の街並

 
 嘉永6年(1853)に二宮尊徳が足尾郷を廻村したとき赤倉は18戸80人であった。明治10年(1877)に古河市兵衛が足尾銅山の再開発に着手すると、間籐と共に各地から人が集まり一挙に商店街が形成されたが、同20年松木の大火で全焼した。しかし、銅山の隆盛は商店街を驚異的に復興させ 同40年には約140軒の店が軒を連ね、中でも料理屋15軒、酒屋13軒、質屋6軒等は鉱山街を際立たしている。一般住宅も80軒余あった。とき恰も、同年に坑夫達による大暴動事件が発生し、本山で鉱業所や社宅60数棟が焼失するなどして、銅山機能は本山から通洞に移り、商店街に陰りがでるが、大正5年(1916)の足尾町総人口は38428人と最高となり、その頃の北部は社宅約300棟飯場20棟に達し賑いの最盛期であった。以後徐々に商店は減少した。昭和48年(1973に足尾銅山は遂に閉山、栄枯盛衰は鉱山街の宿命であり、現在(平成11年10月)の赤倉は92戸186人となった。
 
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