ここから約150m上流 足尾銅山の深い歴史を共に歩んだ渡良瀬川、その名の由来は1200年の昔、日光を開山した勝道上人が修験の途次、この地に分け入り対岸に渡ろうとしたが、谷が深く流れが急なので、困っていたところ、ようやくこの辺りで浅瀬を見つけ無事に渡ることができたので、対岸の地を「渡良瀬」とし、川の名を「渡良瀬川」と命名したと伝えられている。 以来、ここから約150m上流の、松木川と神子内川が合流する地点から下流を、渡良瀬川と称してきたが、昭和40年(1965)に渡良瀬川の起点は、松木川の上流に変更された。 日光市
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日光を開山した勝道上人が、男体山を極めようと難行苦行していたところ、中禅寺湖の波の上に大黒天が現れ、上人を励ましたと言われる頃、白ネズミが穂をくわえて来るので、ネズミの足にひも(緒)を結び後を追うと、この洞穴(現在の祠と大黒天は、昭和31年に大黒橋架替の時造られたもので、古来の祠は向かって右やや下の場所)に入った。 そこで上人は、ここを修験の場とし、洞穴に大黒天と白ネズミの像を祀り、この郷を「足緒」(足尾)と命名したと伝えられている。 日光市
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足尾線は私鉄により開設され、この駅は大正3年(1914)11月1日に営業を開始した。時あたかも足尾銅山全盛期であり、鉄道は物資の輸送増強に必要であった。同7年に国鉄に移った。 しかし、昭和62年(1987)に全町民の猛烈な反対も空しく、赤字により廃しされJRに移った。平成元年(1989)から第3セクター「わたらせ渓谷鉄道」として出発した。その間、昭和45年に無人化(最高時18人)され淋しい駅となったが、平成6年に陶芸教室と合築し「カモシカの見られる駅」として新装され注目されている。 日光市
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間藤駅の近くにて、昔の街の賑わいについての説明の看板が設置されていた。 このような看板は、この先にも2カ所設置されていた。 |
この地は、わずかに農業が営まれていただけであったが、明治10年(1877)に古河市兵衛が足尾銅山の再開発に着手し、飛躍的な発展を遂げるに至り、上間籐・赤倉と共に一大商業地になっていったが、同20年にはまだ辺りは畑で、街並みを形成する道路ができたのはその後である。同33年に「工作課」が、大正6年(1917)頃には「分析係」がこの地に移り開設されて工業地ともなった。 大正3年(1914)には足尾鉄道足尾〜本山間が開通し、旅客の発着駅である「間籐駅」の開設などにより、200戸余の集落となった。その頃すでに、上の平(18棟、浴場)、下の平(6棟、浴場)、浄水(2棟)の社宅が図示されている。同9年に現在地にあった建具屋から出火し、工場と駅を残して全焼した。昭和30年(1955)は、まだ、一般107戸462人、下の平22戸86人、浄水11戸52人であったが、今は(平成12年9月)、44戸100人となり、貨物線路は雑草が茂り鉄路は赤く錆びているばかりである。 |