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What is meta-composition ? |
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Metacomとは何か?聴きなれぬ用語ではあるがmeta−compositionの略である。メタとは”超える”とか”移る”とかの意味がある。マーラーの交響曲第3番を繰り返し聴いていて気づいたのであるが、すでにある音楽作品に歌詞をつけると歌物語すなわち新しいオペラになるのではないかと思う。勿論そのままの音楽という訳には行かないかもしれないので多少の編曲も編集も必要である。私自身も2000年に村山誠さんの前期作品集より編集した音楽作品に歌詞をつけて台本を書いたことがある。英語版が先に完成し後で日本語版も書き上げた。音楽作品を聴いて歌詞をつける作業は楽しい。作曲の才能が十分でない私自身には救いの手が欲しいと感じている。その物語は作曲者の意図するものとは別のイメージになるかも知れない。作曲者が気づかなかったその作品の別の要素も見つかる。それをメタコムと呼んでいるのである。私の親しい詩人に絵をみて詩を書く人がいる。「展覧会の絵」の様に絵を見て作曲する人もいる。何れも異なる芸術媒体に転移する作業でありメタコムと呼ぶに相応しい。村山作品からオペラを書いた”Opera Lyrica Horistic”は作曲家の前期作品からの抜粋を編集して歌詞をつけた。単独作品ではオペラには短いので何曲かを集める必要がある。 さてどの作曲家も沢山の名曲を残している。敬虔で謹厳実直なバッハの作品。ヘンデルの劇的で雄渾な作品。ハイドンの基本的な作品。華麗で即興性があり形式も完全なモーツァルトの作品。重厚で長い終章を持つベートーベンの作品。ブラームスやブルックナーの交響曲。そしてマーラーの素晴らしいシンフォニーを誇る交響曲。延々と終わりのないワーグナーの楽劇。ベルリオーズ、リスト、ショパン、シューマン、シューベルトの作品。最後は無調のシェーンベルクの作品に至るまで名曲は無数にある。勿論オペラ作品も多くは継承されている。これ以上創る必要がない位であるが日本語オペラだけはまだ少ない。それは日本語と音楽が合致していないからであると考える。では日本語に合う音楽とは何か?日本語は五つの母音を語尾に持つ単純な構成の言語であるが京都語には標準語にはない声調がある。中国語ほどではないが声調によって同じスペルでも意味が変わる。このところを音楽でどう表現するかが決め手になる。 短歌の歌い方では、令泉家の各節の終わりの母音を長く引き伸ばす歌い方は平安時代からの伝統であり宮中にもそのまま採用されているが、音楽的な歌い方ではない。一方で声明を基本とする歌い方は能の謡い方として定着した。これは西洋音楽で言えばレチタティーヴォである。アリアまでは発展しなかったのである。打楽器でテンポを取ってきたために和声学が発達しなかったという歴史的制約がある。これら世の東西の音楽を学んで日本語オペラを書こうとしても明治維新以来まだ完成しないほど難しい課題なのではないか。メタコムはこれらの壁を少しは打破できるかも知れない。 庭で毎日鳴いている鳩の音楽は二音音階で歌っている様に聞える。どの鳩が鳴いても形式は決まっている。テンポは必要に応じて微妙に変わる。音高は鳩によって少しずつ高低差がありまた地域での差異もあるようである。よく聴けばポルタメントも採用している!そして日が暮れてねぐらで休む時は昼間より更に低い音階の重低音で合図する。鳩はその音楽形式のどの部分で会話しているのであろうか。鳥の鳴き声から作曲したのはメシアンが有名である。鳥の声を代表とする自然の音楽に学ぶことは大きい。 名曲を静かに聴き続けると100回位から印象は変る。今まで聞えなかった音が聞えて来る。村山作品では300回聴いてから歌詞を付けた。千回が無理でも300回以上は聴き続けないとイメージは十分には湧いて来ない。古今東西こんなにも名曲が揃っているのでもう誰も新たに作曲する必要がないほどである。但し日本語オペラだけはまだ完成していないので作曲する歴史的意義はあると思う。名曲を聴きながら思う最近の感想である。 |
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25 Mar 2010 |
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